『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』と私のこと
2020年6月27日鑑賞。
私は昔から、女の子らしさを求められることが苦手だった。幼稚園の頃はズボン一丁で園庭を走り回っていたらしい。スカートよりもズボン、麦わら帽子よりもキャップ。だって、そのほうが遊びやすいから!そういう子だった。そんな私を見た祖母が母に言ったらしい「もっと女の子らしい恰好を着せてあげな」、それを聞いたときの居心地の悪さは今でも思い出せる。でも私はおりこうさんだったから「これは正しくないんだ」と居心地の悪さは見ないふりして、その次には花があしらわれた薄紫の麦わら帽子を買ってもらった。私は、わたしらしさを押しつぶして、大人たちが認める「いい子」であろうとしてきた。
大学4年生の今では、一辺倒の女の子らしさなんて知るか!私は私の好きなようにやらせていただく!というモチベーションになってきた。でも、それでも、自分の女の子らしくない部分や”普通”じゃない部分を見つけては、あの頃と同じ「正しくないから直さなきゃいけない」という恐怖感がよみがえる。私は、この居心地の悪さと一緒に生きてきた。
だから、ジョーは私だと思った。
ジョーは19世紀のアメリカにおいて、一辺倒の女らしさに押し込められること、結婚の幸福をきっぱりと拒否し、小説家としての地位を築き独りで生きていこうと闘った。しかしそんな一方で、「愛してもらいたい、寂しい」と一度は結婚の幸福に揺らぐ。
その、両方の感情を私は知っている。
時代も環境も違うけれど、同じように居心地の悪さを抱えながら自分らしさを捨てることもできず生きるジョーに共鳴が止まらなかった。
さて。
私自身の経験に照らし合わせ、ジョーへの感情移入という点でこの作品について話してきた。
しかし、
この作品が素晴らしかったのは、ジョーを通して女性の生きづらさを告発したというところではない。「女性の自立賛美」に留まらず、多様な「自分らしい人生」の形を描いたところだっただろう。
ジョー含むマーチ家の四姉妹は、それぞれに「自分らしい人生」を生きた。
長女のメグは、”普通”に愛する男性と結婚した。しかし型にはまっているからと言って「自分らしい人生」を送れなかったわけではないだろう。
三女のベスは病気で早くになくなってしまったけれど、運命を恨むことなく最後まで家族を愛し穏やかに生きた。
経済的で愛のない型にはまった結婚に納得しようとしていた四女のエイミー。しかしローリーのアプローチに自分の正直な気持ちを思い出し、愛のある結婚に道を進めた。
それぞれが自分と向き合い、自分らしい幸せを手に入れた。
型にはまっていようと、はまってなかろうと、そんなのは関係ない。
正しいも正しくないも、そこにはない。
誰に言われる筋合いもない。
幸せの形は人それぞれ。
そう、この作品は言っているように感じられた。
人間なら誰しも考えたことがあるだろう「自分らしさ」という課題には、無数の答えがあり、そのどれもが間違いじゃないと教えてくれるこの作品は、多様性と個を尊重すべきと声高に叫ばれる現代に則していただろう。