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『泪橋ディンドンバンド4』の違和感

2020/9/2 19:00公演鑑賞

※題名から分かる通り、本旨は文句なのでご注意
※ネタバレでしかないです


作・演出 堤泰之
@銀座 博品館劇場

前作は私の私に対する成人祝いでチケットを買って見に行ったような気がするので、一年半ぶりの泪橋ということになるのかな。

銀ちゃん、耕助、哲也、牡丹姐さんのおなじみの泪橋の面々が、おなじみの面接のほしがりを始め、パチ屋のキャラクター扮装で次々に登場し、

「笑え!君が笑えば僕も笑う。僕らが笑えば誰かが笑う。この町に笑顔を届けよう。悲しみ多き泪橋に笑顔の花を咲かせよう。それが俺たち、泪橋ディンドンバンド!」

いつもの口上を威勢よく放てば、待ってました!と懐かしさと信頼に全身をゆだねてしまえる。いつも通りを見れることの嬉しさが、コロナ禍の今だと余計に染み入った。

4作目の今回の主人公は、中学卒業とともに泪橋ディンドンバンドに入った最古参の耕助(演:青木一馬)。頭は良くないし話は脱線しがちだけれど、まっすぐで人情にあつい心を持った憎めないいいやつ。

耕助は新しく入ってきたメンバーのみずき(演:騎田悠暉)をかわいがっていたが、みずきが町をさわがせているオレオレ詐欺の犯人かもしれないという疑惑がにわかにたちのぼる。そして当の耕助も徐々に不審な挙動を見せ始め、ついには片棒を担いでいると判断した銀ちゃんにバンドから追放されてしまう……

熱くてまっすぐな優しい人たちだからこそ起こってしまう、人情故のすれ違いと和解の物語だ。

泪橋の物語には悪意があって間違いを起こす人が出てこないから、いつもすっと胸に入ってくる。今作もそうだった。

ここから文句です。

違和感がこびりついてしまうポイントが一つだけあった。それは、今回のトリックになっていたみずきのトランスジェンダーの描かれ方だ。

耕助が疑われる原因になった不審な挙動は、みずきが「男性の体に女性の心を持つトランスジェンダーであること」をバンドのみんなにばらさないための嘘から来たものだった、というのが今作のすれ違いのオチだったのだが。それに対面してメンバーたちは、拒絶感を表すことなくそれぞれに受け止めようとしていた。相変わらずの優しい世界で、そこは問題じゃない。

ただ気になってしまったのは、冒頭のシーンだ。まだみずきがトランスであることが誰にも知られていないときに、彼は偶然に女装をさせられることになる。パチンコのキャラクターの扮装であるビキニを新しく入ってきたメンバーが着せられるのは泪橋のお決まりの流れで、そこで大抵のメンバーは嫌そうな顔をして銀ちゃんに「笑え!」と言われる。

が、みずきはここで心底嬉しそうに笑った。

そのときは誰も彼がトランスであることは知らなかったから、それがなぜなのかはわからなかった。が、全編見た後で思い出してみると女性の心を持ちながら女性らしい服を着ることのできてこなかった彼は嬉しかったんだな…とわかるというトリックになっている。

でもこの描き方って、正解なのかな。

じゃあなんでそうおもうのか?

トランスジェンダーの人たちは別に、
「“心の性別らしい”服を着れればなんでもいい人達」ではないんじゃないかと、私は思う。

本来着たい服を着せられて「似合う」と言われても、それは仕事として身に付けることを許されたから着られるのであって、みずきはみずきとして自分らしさの表現としてそういう服を着ることを社会的に許されたわけではない。そしてみずきはそういう人生をそこまでもずっと生きてきたはずで。

こういう服を着たいと思うのは病気なんだ、
間違ってるんだ、
矯正しなきゃいけないんだ、
俺は男なんだ。
そう自分に言い聞かせて、本当にしたいことは押しつぶして男の服を着て男としてふるまってきたはずで。その葛藤は彼も劇中で吐き出していたところだ。

そんなみずきが自分のアイデンティティを認められていない状態で、事故で偶然にも身に付けてみたい服を着せられて一点の曇りもない笑顔を見せることが出来るなんて、それは、本当に?
そうだとは私は思えなかった。

「女としてのアイデンティティを認められること」
を誰よりも欲してきた彼を人間扱いしない演技と演出だと思った。そこには生々しい葛藤がなかった。

コメディーなのだからある程度人間がディフォルメされるのは当たり前で、泪橋ではトランス以外にもオタクだったりチンピラだったりも今までディフォルメされてきた。等しく彼らは個々人の差異を削除されてたキャラクターとして登場していて、彼らもまた人間扱いはされてこなかった。かれらも同じように個人の生々しい葛藤を描かれていない!人間扱いしろ!と言うべきなのかもしれない。

でも特にトランスジェンダーをそういう扱いにしてしまうことに違和感を持ってしまうのは、彼ら(彼女ら)がずっと「いないもの」として扱われてきていて、差別の土俵にすら上がることが出来なかった、今もなお上がれていないという現状があるからだ。

人間扱いされてこなかったのに、物語に取り上げられてもなお人間扱いされないのか...と落ち込んでしまう。

たとえば、

私の友人にもそういう悩みを持っている人がいて、出会って一年以上たってやっと話してくれたことがあった。それくらい、自分のアイデンティティを受け入れられない可能性への恐怖や、受け入れられていない事への苦しみはいまもなおある。ある程度世間的に認められるようになった今でも、個々人の苦しみは消えていない。今もまだトランスジェンダーは「キャラクター」として完全に世間に受け入れられているとは言い難い。

だからトランスジェンダーを一つのキャラクター/個性として人間扱いしない手腕にはまだ時代が追い付いていないし、やるからには責任を持ってやってもらわないと誤解を生んでしまう。

私は女の体に女の心で生まれた人間なので、こんな偉そうなことを言う資格なんてどこにもないのかもしれないけど。でも、想像力を働かせることをやめたくはないので。

脚本家と役者がみずきを人間扱いしない手腕を見せていたことに違和感を覚えたということを、ここに書きおいておきます。

一人ひとりの人間への想像力を絶やさないでほしい。

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