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京大連続講義(1)哲学⑤「『われわれとしての⾃⼰』の倫理」出口康夫教授

京都大学のオンライン公開講義
テーマは、ウィズコロナ時代に必要な「人文学」

8/8(土) 哲学⑤ 出口康夫教授「われわれとしての⾃⼰」の倫理

究極の善には、より大きな「われわれ」が必要だ、ということかな?やっぱり難しいけれど、なんとなくわかってきたような気がしてきた。「われわれ」という概念に神秘的でスピリチュアルな彩を感じる必要はなく、自然や司法制度に助けられている事実や、物理的な世界は何も変わらないのです。
来週の補講で、いよいよアフターコロナのお話へ。


「わたし」と「われわれ」は同時に成立する

個人的な自己である「私」が委譲者性を生存系に譲渡することで、「われわれ」を構成する「いちエージェント」としての「わたし」になる。

行為

「自転車に乗る」という行為の目的は、僕のため、家族のため、仲間のため、人類のためと上位に進んでいくと「生態系する!」にまで到達。

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その上限を「最大行為」とし、その目的は「究極の善」である、としましょう。ここは、ジャンプする思考なので、「そうしましょう」っていうことで話が進みます。

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善い「われわれ」の三条件

より大きいこと。
エージェントが互いを仲間として扱うこと。
外の他者を仲間として扱うこと。

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社会的災害としての殺人

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「殺人はなぜ悪い?」への回答がでてきた。
フェローシップを大きく欠いた行為で、かつ「われわれ」の拡張可能性の毀損であり、二重の意味で「悪い」行為である。
加害者だけでなく、われわれは、犯罪が二度と起こらないようにデザインしなおす責任を負うことになる。

そしてまさかの補講予告

8月15日14時から15時
アフターコロナと「かけがえのない私」
対話としての自己
みなさんとの対話

質疑応答

後ろにある美しいコートが気になります。
→シンガポールのインド街で買った、インドの服です。時々着て校内をうろついてみたいと思います。

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エージェント単なる自己の区別として、ひらがな(わたし、われわれ)と漢字(私、我々)を使っている。
英語では、”I” と ’I’ 、”we” と ’we’ というように、クオーテーションマークをシングルとダブルにして区別している。

死刑制度は「われわれ」としての自己の広がりを毀損するから「悪」です。

コロナ禍での自粛と経済活動の両立について、より大きな「われわれ」という観点で考えてみたい。食物連鎖を調停するのは、簡単なことではないです。目の前の命をどうやって救うのか、個別の現場ではその場での判断や、実践的な知識が必要であり、一概には言えない。

ちょっとびっくりの補講がありますので、また来週、ほんとの最後の最終回、よろしくお願いします。
(完)

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