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#もにょろぐ じぶんサイズのしあわせ

わたしは生活の中で「足るを知る」とか「身の丈にあった」みたいな言葉を意識しています。それは貧乏だった子供時代に培ったものであったり、また働き始めてからも満足に生活費を稼げなかった時代に培ったものでもあり、わたしの考える「しあわせ」を得るために信じているものです。

「しあわせ」って「満ち足りている」と感じること、充足感かなぁと。そのベースには安心感があっての上だと思います。物足りなさというのは冒険心や好奇心を産み、新しいものを生み出していく、取り入れていくクリエイティブな生活には欠かせないものだと思います。でも「物足りなさ」が大きくなりすぎると、今度はぽっかり空いた穴のように感じて、それを埋めるまで晴れない焦りを感じることもあります。

わたしはその「足りなさ」を感じるのに疲れちゃって。買い物に行ってもいつも「足りないものさがし」をしている自分に呆れちゃう。「欲しいものさがし」じゃなくて「足りないものさがし」。いつの間にかキラキラしている自分を満たしてくれるものじゃなくて、穴を埋めることに注力するようになっていたなぁと気付きました。

意識して「足りないもの」探しをしていたわけじゃないです。なのになんでそんな風になってしまったんだろう。わたしはいつの間にか、自分自身の置かれている環境とか、自分自身の持っているものに満足しなくなって、何もかもを一過性のもののように感じて、自分の身の回りのものだけじゃなくて、自分自身までも使い捨てのように感じていたような気がします(すごく極端な表現をすると)。

それから結婚して、引っ越しをして。環境が変わって一年たちました。今のわたしは去年のわたしよりも経済的には苦しいはずなのですが、とてもしあわせです。やっと「じぶんサイズのしあわせ」を感じられるようになってきました。

この「じぶんサイズのしあわせ」というのは、ヘッダーのわんこ、こうたが教えてくれたものです。おやつをあげる時、どんなに「いいよ」と言っても「こうたサイズ」になるまでは「待て」の時の姿勢と同じ状態で食いつかず、見ないふりをします。そういうしつけをしたわけじゃないんですけど、こうたには自分が食べてもいいサイズ、ダメなサイズがあるようでした。いじらしいよう感じていた時期もありましたが、今はこの「こうたサイズ」はわたしにとってしあわせを感じるヒントになりました。「こうたサイズ」はこうたにとって「身の丈に合ったサイズ」だったんだと思います。

じゃあその「身の丈」ってなんだろう。あまりにフィットしすぎているものだと向上心が養われない気がする。でも大きすぎるものを望むのも、現実とかけ離れているならばそれも違うような。フィットしている~やや余裕があるくらいのイメージなんだろうか。しあわせを服のサイズのように考えるのはちょっとおかしいけど、そんな感じなのかな。

わたしはなんとなく、「じぶんサイズのしあわせ」を見つけて、着心地のいい服を着て過ごしているんだと思う。やわらかくって、乾きやすくて、あたたかくて、ぶかぶかしない。想像してみたら心地良さがふんわりふくらむ。

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鉄鍋もにょ
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