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#もにょろぐ 帰省と我慢のはなし。


今年生まれた息子「いりょり」を祖父母に抱いてもらうために、祖父母のいる青森に行ってきましたー! 生後6か月の子どもと新幹線に乗って移動するのはドッキドキでしたが、すごく大人しくて助かった。帰りに近くの席の他のお子さんの声が気になってなかなか寝入れなくて愚図ってしまったけど、ほんっといい子だった……! ありがてぇ。

祖父母はいりょりを歓迎してくれて、喜んで遊んでくれてました。
6か月にして体重が9キロ以上ある大型なのに、祖父は「空気の入れ替えだ」と言って毎日抱いて庭の畑を歩いてくれました。二人とも「驚くほど泣かない子だ」「たまげたでかい子だ」と褒めてくれました。よかった。
認知症を患い、もう数年の祖母は本当に数分前のことも忘れてしまう状態でした。そのおかげ(?)もあり、重いいりょりをずーっと「どれ、どれだけ重いかわれにも抱っこさして」と構ってくれて助かる場面もあったなぁ。忘れちゃってると思うけど、体は疲れが蓄積しているだろうからちょっと心配だったかも。

祖母の認知症は物忘れも大変な状態だったけど、「みんなして自分を馬鹿にしている」という気持ち……というよりも思い込みが激しくなって急に攻撃的になる瞬間が何度もあった。怒りの矛先をはいつも祖父。祖父は怒っている祖母に対して、昔よりも我慢が難しくなっているように見えた。もう何年も理不尽な祖母からの怒りを耐えてきたし、祖父も歳を重ねているし。
年齢を重ねると、感情のコントロールが難しくなる。怒りっぽくなったり、涙を流しやすくなったり。
でも、年齢だけの問題ではなく、何年もの間耐えてきてはいるものの、怒りをぶつけられる頻度がグッと上がり、毎日数回、理不尽な怒りをぶつけられ続けることに耐えるのは難しい。

祖母はときどき、ラジオを聞いている途中で別のチャンネルが流れ込んできてしまう時のように、ふっとずっと過去の祖母になってしまう。わたしの知っている範囲の昔のこともあれば、50年前のこともある。50年前の祖母になってしまうと、もう今住んでいる家(住み始めて50年近くたっている)を自分の家だと認識できない。もっと昔に住んでいた町にまだ家があると思って「そうやって私を馬鹿にするなら帰ります!」と言って出て行こうとする。「帰るってどこさへ」と祖父が問うと「●町に私の親がいるからその家よ」と答える。祖母の父母、わたしの曽祖父母はもちろんもう亡くなっている。曽祖父は19年前、曾祖母は13年前に。どちらも祖母が世話をして看取っているのに、もうそのこともラジオの周波数が合わなくなると忘れている。
その瞬間は自分に子どもや孫やひ孫がいることも忘れてしまっているんだと思う。けれど祖父のことはしっかりと認識している。けれどこの調子で昔の記憶に飛んでしまうのならば、いずれ祖父のこともわからなくなる瞬間がくるんだと思う。

祖母の祖父に対する怒りは根深い。
その昔、祖父は「いい父親ではあってもいい夫ではない」時期があったそう。その時のことを思い出しているであろう妄想にとらわれている時もある。そして、一番は長らく祖母が我慢だらけの人生を歩んできたことにありそうだと今回の帰省で感じた。
祖母は決まって、祖父が誰かと話をしていて自分が台所にいる時に機嫌が悪くなる。台所にいても、祖母はもうかつての祖母のように家事をすることはできないのだけど、つい癖で台所をうろうろしては、あちらこちらを開けたり閉めたりしている。何をみんなに食べさせようと悩み、何があるかをひっきりなしに確認するため。おかげて冷蔵庫の冷えもなんだか悪いように感じる。冷蔵庫の上を開けて、真ん中を開けて、下を開けて、それからまた上を開けての繰り返し。その作業はもう何も生み出さない作業だけど、祖母にとっては違う。わたしたちのためにやっている家事。祖母は自分一人で忙しくかじをしていて、祖父はそれを手伝わずみんなと楽しそうにしておいしいところだけ持って行ってしまうと感じていたようで、でもそれをずーっと口に出さず我慢していた。で、今その我慢が爆発するようになってしまった。「あんたばっかりいい思いして、私ばかり我慢している!」祖母はそうやって滞在中に何度も怒っていた。祖父が「お前もこっちにいて話そう」と言っても「おらはやることがある。おらがやらねぇで誰がやる」と頑なだった。

実際には食事の支度はわたしがしていた。わたしが調理していると祖母も一緒に台所に立ち、「何を作ろう」と食材を持ったり、仕舞ったり。「もう作るもの決めてるよ。これを作るつもりだよ。自分がやるから大丈夫だよ」と話すと「あ、そうか」と言うけど、また振り出しに戻る感じ。作ったばかり物を「古いやつだと思った」と言われて捨てられたりしたのはショックだった……。洗濯したものがダメになるとか、掃除したばっかりなのに汚されたとか、やり直しの利くことじゃない&食べ物というところもあってダメージがでかかった。でも余計なことしないでとは言えない。ずっとやってくれてたんだもの。それに「座ってて」と声をかけてもすぐ立ち上がってしまう。
今回はいりょりがいたので「ばあちゃん、ごめん。いりょりをちょっと見ててほしい」とお願いすることが出来たので、ちょっといい組み合わせかもなと感じた。実際にはこの二人をさらに見守りしている祖父またはだんなさんがいたりしたのだけど。

そんな具合で、家事から戦力外になってしまっている現状があるけれど、本人はその認識がない瞬間がある。でも認識してないわけじゃなくて、しっかり認識している現在の時系列の祖母もいる。現在の祖母は認知症に大変苦しんでいて、自分は馬鹿だと責めている。調理師だったのに料理が出来なくなってしまった事、食事を振る舞えなくなったことに特に悩んでいる。このムラがとても難しい。
人に説明するときにはもしかしたら多重人格の時間版と説明すれば簡潔かもしれない。現在の祖母だったり、ちょっと前の祖母だったり、うんと昔の祖母だったり、ふとした瞬間に入れ替わってしまう。そしてまたふらっと戻ってくる。
現在の祖母は深い孤独の中にいて「もういなくなってしまいたい」と泣き、過去の祖母は怒りまき散らし「おらがいなくなればいいと思っているんだろう」と叫ぶ。

認知症は忘れてしまうだけじゃない。
忘れて取り残されてしまう寂しさもあるし、思い出して昔の感情の中で荒れてしまったりもする。思い込みが激しくなって、自己防衛のために孤立しようとする。どんなに固くこんがらがってしまった糸をほどいて楽にしてあげたくても、ほどいた手の中にまだある糸ですらこんがらがってしまう。
死んでしまった人を惜しむ感情とはまた違う、まだ生きて目の前にいる人を惜しむ、とても苦い時間。

祖母の我慢という毒は、長い時間をかけて爆発することなく蓄積し続けて、歳をとってから緩やかに回り始めた。我慢は毒。夜、だんなさんと布団に入って祖父母の話をした。我慢は止めよう、と。祖母は我慢強かったし、わたしも自分のことを我慢強いと思っていた。でも「僕はああなったもにょちゃんとは一緒にいられない」と言うだんなさんの言葉は重く、心の負荷を減らさなければいけないと感じた。だんなさんの言葉はショックだったけれど、誰であってもそう感じるだろうと思った。
今だけ不満を封じ込めることができても、50年後にそれがどんな風に露出するかわからない。50年苦しむくらいなら、今その負荷を減らそう。そのためにまず「我慢はやめるね。やりたいことやる。相談にのってね」と話すことが出来たので、得るものがあったかな。

今回の帰省が、生きている祖父母に会える最後かもしれない。そもそもこの土地に来ることができる最後の機会になるかもしれないと思いながらの訪問で、達成感や安堵の傍らとてもつらい思いを抱えて過ごした。
祖父母の見送る在来線が出発した瞬間、絶望のような悲しみが押し寄せて苦しかったけれど、新幹線の駅に着くころには波が引くように自分自身の目の前の生活について考えられるようになっていた。あまりにもあっけなく感情の高ぶりが止んだものだから、夢を見ているような心地になったほど。
別れってそういうものなのかな。

いりょりが泣いているのでこの辺で終わり。

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鉄鍋もにょ
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