「分かっている」選択肢。
伝わらないんだなあと思った。
そして、伝わらないならもういいかな、とも思った。
“伝わらない“ という絶望は想像以上に心を消耗する。
それならば口を閉ざしてしまおう、という考えることは特段不思議なことでもないだろう。
「調子が良いはずなのに苦しい」という葛藤に嫌というほど苛まれているのに、自分さえ認められないその苦しさを正の方向へと結びつけられる悍ましさに耐えられなかった。
人は無意識にジャッジをする。
だから自分の感情を、苦しみを扱ってもらうときには、きちんと「演出」しなければならない。
そう信じてきたし、そうしてきたという自負があった。
けれどもそんなことはなかったらしい。
いつのまにか演出家であることを忘れ、物語の一登場人物となっていた。
心の赴くままに、泣いて、怒って、苦しんだ私はもういられない。
幾重にも張り巡らされた予防線を一つ一つ解いていく作業をしてきたけれど、その積み重ねた日々によって、今、わたしは苦しんでいる。
予防線を張ることで緩やかに許容してきた人との関わりを、遮断することなく解放されるのか分からないまま、分からないまま「分かっている」選択肢を選ぼうとしている。