「普通」という魔法。
「みんなも同じだ」っていうのと、「自分だけ "そう" 」であることと、どっちのほうが負担が少ないの?
その質問を聞きながら、ああそんな問いもあったなあと思い出す。あのときは「嬉しさ」を聞かれ、今回は「負担の少なさ」を聞かれたという違いはあるけれど。
わたしの答えは変わらず、「みんなと同じ」ことを肯定的に捉えるものだった。
「変わっている」と言われるときに、否定的なニュアンスを含んでいることが多かった。たくさん嫌な思いをしてきた。「普通」になりたくてなりたくて悩んできた。
「普通」のひとが地面の上にいるとして、20mの高さに浮遊しているひとは突き抜けているから "天才" と言われるけれど、わたしは5mのところにいるからただの"浮いている子" になってしまう。
これは高校時代からの持論である。保健室で、大学の新歓で、そしてその団体に所属してからも繰り返し、繰り返しこの話をしてきた。
けれども、それは少しずつ変わっている。
今は「変わっているね」と言われることに、あのときほど抵抗感はない。わたしが「普通」になれないということに薄々勘付いているから。「変わっている」という評価がわたしを許容してくれる言葉のような気がするから。「普通」になろうとしなくていい気がするから。
当たり前ながら、会って間もない「知らないひと」に変わっているねと言われるのはとても不快だけれど。
今回、当時とは違って「負担の少なさ」を聞かれたとき、少し安心した。目の前の相手が選ぶ言葉を聞いて、「好き」や「嬉しい」を問われるのではないかと身構えたから、その言い回しをされたときに肩の力が抜けたことを覚えている。
いろんなものをそれを「みんなも同じだから」と言い聞かせて自分を丸め込んできた。
「みんなも大変だから」
「わたしだけじゃないから」
「だからわたしも頑張らなきゃ」
全てを飲み込むための魔法の言葉。
「みんなと同じ」であろうと、「自分だけ違う」であろうと、わたしの中にあるものは変わらない。ただ、みんなが我慢しているからという理由は自分を黙らせるには充分だった。
ふと疑問が浮かぶ。
もちろんそれぞれ苦しいことはある。
けれども当然みんなもそうだろうと思っていたことが、わたしの「普通」が、わたしが疑ったことのないものが、みんなは持っていないものなのかもしれないと思った。
不安だった。
これが「みんなそうだから」と思って耐えてきた、その普通という前提が崩れたとき、なにを頼りにすればよいのだろう。
「みんなもそんなものだと思っていて、当然そうだろうと思っていて、でもあれ〜なんか違うっぽいぞ?ってなりました」と笑うわたしに、冒頭の問いは投げかけられた。
そして、「みんなが "そう" であるわけではないよ」「けれども "そう" なっているのはおかしいことではないよ」という言葉を受け取った。
戸惑いと、それを上回る受け入れがたさ。
どうして。
たいしたことないのに。
もっと辛い人はたくさんいるのに。
「自分の力ではどうしようもなかった」と言われても、「どうにかできたし!」という思いが浮かんでくる。相手の言葉を受け取ろうとすれば、わかりやすく言葉が流れてしまう。思考が逃げていった。おかげさまで、具体的にどう言われたのかを思い出せないまま。
自分の手に負えないこと。力が及ばないこと。いつ終わるのかも、そもそも決別できるものなのかすらわからない。
それが「ない」ということがどういう状態なのか、わたしにはわからない。
これからどうしていいのかも。
書いている途中で、「みんなも苦しいから」「わたしだけじゃないから」「なのにどうしてそんな『普通』そうに生活できるの」「どうしてわたしはそれができないの」といつも泣いていたことを思い出した。
「『普通』ってなによ?」とありきたりなテンプレートを返され、「こうやって保健室に入り浸らないことですよ!」とおどけた。幾度となく苦笑されたことを今も覚えている。