2024/4/25
どこまでも自分をメタに見ようとしてしまうからしんどいんだろうな〜と思う。
「こうしているってことは実は自分はこう考えているに違いない!なんてだめなやつだ!」と思ってそれを話し、それを話したことに対して今度は「わたしはこうやって話すことで『そんなことないよ』を待っているに違いない!なんてだめなやつだ!」をやるのでよくないのかなと。
これもこれでメタの自分ではあるんですが……
メタの自分がいることは大事なんだけど、際限なくメタの自分を生み出そうとする+それに否定させるを繰り返すから良くないのだろうなーというお話です。
自己分析ってメタになる営みだから仕方なさはあるんだけど、その階層をどこまでも上げて行こうとするのは不毛なのかなと思った、
あと自己に対して際限なく超越的になろうとするのって、自分を語る枠組みの中で神の視点に立とうとすることと同義のような気がしていて、そう考えると文字通り「神」のようにすべて小さく愚かな人間の瑣末な出来事だと、寛大な心で許すことも同時にしないと崩壊していくのかもしれないと思った、
これはどの神概念かにもよりますが……ギリシアの神々とかだったらだめだと思うのでもうちょっと概念的な「神」を設定しておきたさはある。うーん、神という言葉が悪いのかも、超越的存在?
なんか一昨日あたりから文学理論の語り手の話に触発されて雑に考えていることなので、哲学的な言葉の使い方とは違うかもしれない、
あとは思っただけで実行できるとは言っていないです。
「自分をメタに見ることこそ正義!」っていうのは、わたしの苦手な「客観性こそ正義!」と同じ類のもののような気がしてくるな、
いや、でも自分をメタに見るのって「客観的に見る」とは違う気がしていて、なんとなく「自分の営みとそれに対する自分の思い(ある種の客観性)」を主観的な枠組みで再認識しようとすることなのかなあと思うと、客観性を苦手とすることと別に対立はしない気がしてきた、
むしろ客観を主観で捉え直すという点で大好きなのかもしれない、
うわあとても腑に落ちてしまった、そう、わたし普段客観的に見ている自分をもう一度メタで見ることを他人に強要して「それは主観ではないのか」と問いかけようと?問い詰めようと?している気がする、うわあ……
なんか、メタを繰り返したときの限界の階層(現実的にはこんなものないのだけど)の自分が最も超越的存在になるのかなと思っていて、その存在は全てを超越しているわけだからもはやジャッジなどせず、全てはこの世の塵芥……我にとっては些末なことよ……(余裕の笑み)」くらいにどっしり構えてほしいなと
自己の全てを批判しにかかるのが不毛だな〜と思ったので、ある一定のメタ階層を超えたら(現実にはないんだけど)最上位に位置する超越的存在みたいなの(空想上の生き物)を勝手に置いてみれば、ぐるぐる回る思考を止められるかな……みたいな希望的観測です。うまく言葉にできている気がしないが……
いつも通りなんだけど、これ元になったエピソードがあって、メタな自分で過度に自分を断罪し続けていたときに、知人がわたしの守護動物?的な存在として麒麟を設定してきて(空想上のほう、麒麟は可愛くないからわたしは賛同していない)、何か言うたびに「でもそれは麒麟にとっては些末なことだよ」「鼻
で笑ってそうじゃない?」って言ってきたってエピソードがあって、自分による自己否定はメタ的視点に立てばどこまでも突き進めてしまうというのと、文学におけるメタ表象や語り手とについて考えていたときに、「超越的な視点ってこれ麒麟では?」となって、じゃあある程度のところで、ここがメタの
最高階層であると仮定して、そこに超越的存在を置くことで、自己への不毛な価値判断そのものを一旦やめられるのかなという机上の空論(わたしはできたことがない)です。
超越的存在は、むしろ自分のジャッジをすることのないものとしてあるというか。コヘレトを置いて「全ては空しい」で終えるのもあり(個人的にはこっちの方が性に合っている気はしている)