見失った感情。受け入れられない記憶。
しばらくの間、自分の感情が分かりにくくなっていた。
自分の中で「辛い」を中心としたネガティブな気持ちを認められなかったのだ。
「楽しい」「幸せ」「元気」が口からついで出ていった。それが本当ならば良いのだが、明らかにいつもの私なら辛くなっているようなことに関してなにも感じない。感じることができない。感情が麻痺した状態だった。毎日泣いている人間が、なにがあっても泣かなくなった。
「辛い」感情がない代わりに、身体的症状に出た。胃が痛い。食事が食べられない。眠れない等々。不安定な時に出る癖も悪化していた。
身体は辛いはずなのに、感情は追いついてないから元気に振る舞える。だから周りも気がつかない。受験を前にして不安定な友人たちが相談しにくる。(なぜか不安定な人から相談されることが多い。類は友を呼ぶのだろうか)
それが約一週間続いた。
最後のほうは、自分でもこれは危険だと気づいた。よく気づいたな、とは思うがそこからが良くなかった。無理やり泣こうとしたのだ。
苦手な番組、音楽、動画、物語に片っ端から浸った。いつもなら苦しくなって泣いてしまうような、そんなモノばかりを吸収し続けた。
また、自分の過去を掘り起こした。今まで向き合わないようにしてた自分の過去を無理矢理書き出した。正直書き出しはじめるとき、かすかに胸が苦しくなった。「やばいかも」とは思った。でも、そこで止めるのは甘えのように感じた。その苦しさに気づかないふりをして無理矢理手を進めた。今から考えれば本末転倒なような気もする。
それでも涙は出なかった。
そして、その過去を疑いはじめた。
これは全て嘘なんじゃないか。
本当はこんなこと起きていないんじゃないか。
被害妄想なんじゃないか。
勝手にわたしが作り上げた記憶なんじゃないか。
自分の記憶が信じられなくなった。
確かにあったことなのだ。事実だ。その時の記憶は今でも鮮明に思い出せる。確かにあったはずなのに。
自分が信用できなかった。
そして「確かにあった」と思うたびに、
それは自分が悲劇のヒロインになりたいがために記憶を正当化しようとしているだけなのではないか、
という罪悪感に苛まれた。
人を悪者にしようとしている自分が許せなかった。
その荒療治の数日後、いろいろと積み重なって無事(?)爆発したのだが、その後もその考えは消えることがなかった。
確かにあったはずなのに。事実だと誰かに言ってほしい。でも当事者は忘れているだろう。いや、忘れているのではなく本当になかったのではないか。きっと彼らに聞いたら「そんなことはなかった」「被害者ぶるな」と怒られるだろう。確かに当時からよく「被害者ぶりやがって」と言われてきた。その通りだと思う。やっぱり記憶違いなのではないか。
そう考えて納得させようとするのに、それで傷ついた小さな私は納得できないのだ。そしてその傷をいまだ抱え続けている私も。
傷に気づかないふりをして、大きくなってきた。結局私はあの時の小さな私となんら変わらない。だからこそ記憶を否定することは、その傷ついたちいさな私を否定すること、ひいては今の私自身への否定へと繋がっているのかもしれない。
誰かにあなたの記憶は正しい、と肯定してほしい。
大丈夫。と言ってほしい。
けれども結局その記憶を肯定できるのは私だけなのだろう。
それでも、それでも私1人で立ち向かうことは難しいのだ。誰かにそばにいてほしい。向き合う手助けをしてほしい。
そう考えることは甘えなのか。
甘えなんだろうな。