あなたの見据えた未来にわたしもいたい。
「あなたの見据えた未来にわたしもいたい」
そう願っていいのは、恋人だけのような気がする。
その願いを抱くことが許される「恋人」という立場に憧れるものの、私には無理だろうという諦めと共に生きてきた。
だってわたしは "重い" から。
「好きなタイプは?」と聞かれたとき、いつも「精神的に安定している人!」と即答してきた。それはおそらくほとんどの人間が恋人の条件としてあげるもので。となると、同じく私にもその条件が課されるわけである。それを考えてなかなか一歩を踏み出せないままに22年を過ごした。
自分の向ける "好き" は暴力的なもので、だからわたしは誰かを好きになってはならない。"好き" だと悟られてはいけない。
恋愛とは難儀なものなのだろうなと思う。周囲の話を聞いていると、なかなかうまくいっているカップルも少ないようで、大抵の場合はその場の誰かから「別れたらいいのに」という言葉が飛び出す。
つい先日も、恋愛話を聞く機会があった。私たちメンヘラホイホイだから、と笑うその人たちを見て、漠然と私はホイホイされる側だなあと思った。にこにこと微笑みながら、きっと恋愛という土俵に立つ資格すらないのだろうなと、何度噛み締めたかわからない諦めを抗うことなく飲み込もうとしていた。
「恋愛は譲歩ですしね、お互いが譲り合って折り合いをつけていくものだから」
幾度となく聞いた言葉。でもあなたは完全に、100%相手に譲ろうとしているじゃないですか、相手の望みを100%叶えようとしているじゃないですか、と反論が喉元まで込み上げてきて、そして口をつぐんだ。
わたしはどうだ?という疑問が初めて浮かんだ。
帰り道、1人で考えた。
きっとわたしは重いのだと思う。その事実は変わらない。けれども、それに困ったときにきちんと伝えてくれる相手と、落とし所を一緒に考えてくれる相手と、話し合って譲り合って過ごしていくことが「長続きする」ということなのかもしれない。
誰かを好きだと言うことは、あなたとの未来を望むことは、そんなことは私に許されないのだとずっとずっと呪いをかけ続けてきた。私が好きだと言えば、相手を苦しめることになり、その関係にはいつか終わりが来るのだから。それならば望まない方がずっと幸せでいられると。そう言い聞かせて好きではないふりをした感情がいくつもあった。
とても怖い。
誰かを好きだと言うことが。誰かと永遠を錯覚して、自分で壊してしまうことが。けれども関係を続けようとする努力を忘れなければ、少しくらい未来に思いを馳せることも許されるのではないか。
"好き" に蓋をして押し込めた感情はもう戻ってこないと思うけれど、明日の私が少しでも "好き" を怖がらずにいられたらいいな。