八島游舷「Final Anchors」(『新しい世界を生きるための14のSF』より)
※ネタバレあり
パキッとしたSF、という印象。カチッとしたでも、シュッとしたでも(これはちょっと違うか)いい。パキついている。当然、褒め言葉である。理系っぽいとか、そういったニュアンス。たとえば『ノルウェイの森』とかは、全然パキッとしてない。文系っぽい。
こんなの、絶対、私には書けない。その意味では安心して読めた。読む方も書く方もSF初学者である私は読んだ作品を<全体SF>と<部分SF>にざっくりと分類していて、今作は<全体SF>である。
<全体SF>とは小説世界全体が”いまここではない世界”であり、それは未来だったり宇宙空間だったり異世界だったり、読者である私たちとはかなり異なるロジックやエシックが世界全体を駆動している作品、を指す。<部分SF>は読者である私と全く同じかほとんど同じもの(”いまここの世界”)として設計された世界にSF的なガジェットなり設定が部分として、異端として、奇妙なるものとして、存在し、部分が全体を異化(もちろんその逆も)することで物語を駆動する作品を指す、指します。
今作に登場するジェシカとサイモンの二人の人間は設定のみで内面はほぼ与えられておらず、いまここ(として読んでも基本的に差し支えない)+超高性能ガジェットの<部分SF>とも呼べるかもしれない。とはいえ作中の九割以上はネットワーク上におけるルリハとグスタフ、二人/二つのAI、の法廷バトルに割かれており、限りなく<全体SF>に近い<部分SF>が正確だろうか。
部分が増大して全体と見紛い、その隙間からのぞく”いまここの世界”を鮮やかに魅せる手法が見事。”いまここの世界”の象徴たる海が、常に建物=人工的なものに切り取られていることも同様に理解できるのは言うまでもない。
今作のカタルシスは以下のようなものだ。
自動車(に限らずあらゆるガジェットに)に高性能AIが搭載され、AIの判断が人間のそれに近付く=優秀で潔癖であるはずのAIが愚かで汚れた判断をしてしまう。
清が濁を呑む、ってパターンですね。好き。みんな好きか。
登場人物の内面、精神的な緊張と解体、の緻密かつ美麗な表現こそ文学の本懐である。いまや相当に時代遅れなこの文学的(笑)なスティグマは、ギリギリ昭和生まれの私にもしっかりと刻まれており、だからこそ逆に筒井康隆は偉大なんだ、とか色々なことが言えるだろうけど、つまり文学とはウェットで湿っぽいもの、なんですね。イメージとして。
今作をパキッとしてると表現したのは、AIの人間的な葛藤なり逡巡なりがあまりにパキッと、それこそ数学的に明快に、プログラミングのように的確に移行していて、そこがSFっぽいなあと。舞台をサンフランシスコと、まったく湿り気のない場所を選択したことも含め、もちろん狙ってのことだろうし、それが悪いとかでも全くない。
SFを読み始めた時に、文学的(笑)な価値観を捨てきれなかった私は、いくつかの作品で、あまりに登場人物が類型的ではないかしら?と戸惑ったものでした。その戸惑いは、SF小説を、人間(だけ)ではなく世界(のルール)を書くための形式、として再発見するまではなかなか拭えなかったのです。
今作はパキっている。感情というウェットでやっかいな代物を、ロジカルに乾いた筆致で「まるで湿っているかのように」(非文学が文学を擬態する≒AIが人間を擬態する)書くことに今作は成功しており、そのことがSF的な驚きを邪魔していない。
今作はこんな風に始まる。
なるほど、わからん。SF初学者(読者)としては身構える。なぜならここから小説内世界のロジックや設定を理解する必要があるからだ。正直、ちょっとめんどくさい。
しかしSF初学者(書き手)としては勉強モードになり、俄然興味が湧いてくる。どうやってこの作者は設定を開陳するのか。その手法をぜひとも盗みたい。長編ならともかく、短編ならその難易度は劇的に上がるだろう。
私も小浜先生の仰るセンスが重要だと思うし、是非身につけたい。今作はその意味でのセンスはない。だけど、それは当然ながら今作が要請するセンスではないというだけで、作品ごとに相応しい(またはふさわしくない)開陳方法があるだけだ。多分。
今作の設定開陳方法をみていく。
ごくシンプルな方法だ。「Final Anchors」は作中にセルジュ・ボリーギン著『カリフォルニア州交通システム白書』という偽書をフォントを変更して挿入し、一気呵成に説明を済ませる。それ以外はルリハの回想内でのサイモンのセリフや、グスタフとの攻防で追記していく(これは若干わざとらしさを感じたけれど、それもまた良し)手法をとっている。
スマートなやり方だと思う。法廷バトルという特性上、設定を徐々に開陳(徐々に開陳されるべき情報は、必然性をもって徐々に開陳されていく)していくのでは意味不明になるし、裁判の設定なので公的な文章がいきなり挿入されても、そんなこともあるよね〜と妙な納得感があって、違和感は全くない。
次々と登場するガジェット(ハーマ・ポスト、ダウナー、AIフェンス)も登場の必然性があり、とってつけた感やいいたいだけ感は一切なく、どれもシステマティックに機能して華麗に作中を駆け抜けていく。まるでスーパーカーみたいに。
本当に本当に、上手だと思いました。
それで、拙作について。まずは以下のツイートをご覧ください。
具体的にどこが「弱かった」(大森先生は一刀両断で終わり、具体的な指摘はなかった。多分何もかもが弱かったのだと思う)か、を考える必要がある。私は『新しい世界を生きるための14のSF』を模範解答集として読んでいる。
私は「あなたが、リアルでありますように」を<全体SF>として書いた。書くしかなかった。これは「100年後の未来について書け」というお題を自分で選択したからで、まさに自殺行為としかいえないのだけど、私には<全体>をロジカルに設計する能力は、はっきり言って、ない。なかった。
だからこそ「あなリア」の登場人物は”いまここの世界”としか思えない思考や行動しかとらない(とらせることしかできなかった)し、申し訳程度の「100年後の未来」感、少子化のバックラッシュだったり気候変動だったり、は<全体>を仄めかすけれど、肝心の<全体>は「あっちの世界」「こっちの世界」「夜這い装置」「オゾンホール破壊」と張りぼてで、ちぐはぐで、要は弱い。弱すぎる。これじゃSFに発見されない。恥ずかしい。
<全体>を書いているつもりが<部分>しか書いていない(書けない)から、説得力がない。テキスト的現実が寄って立つ足場がない。すぐに崩れる。綻びる。
私は、私が呼ぶ<部分SF>しか書けない気がする。ちなみに、私は<部分SF>の方が好きだったりする。ほのかに変な世界。ほのかなサイケデリアが好きなように。それがコンプレックスの裏返しなのは、言うまでもない。