照らせば光る瑠璃のような―映画『月の満ち欠け』の翻案の見事さについて―
高田馬場の早稲田松竹で映画『月の満ち欠け』を観た。
シネコンで公開されたのは昨年2022年。2023年2月になって遂にこの作品が名画座(封切りからしばらく経った名作映画を二本立てで上映する映画館)である早稲田松竹にやって来た。
僕はこの映画を早稲田松竹で観ることに強い拘りを持っていた。高田馬場が舞台になっていて物語の中で早稲田松竹が重要な役割を果たす、という事前情報を耳に入れていたからだ。
僕はあと一週間で東京から地元に帰ってしまうので、このタイミングで早稲田松竹での上映が行われたことはあまりにも奇跡的で運命的なことである。まぁどのみち東京から離れた後で早稲田松竹で上映されることになったらこの作品を観るためだけに東京を訪れようと思っていたのだが。
早稲田松竹は僕が住んでいる下宿から歩いて15分ほどの場所にあるのだけれど、実はこの2年間の早稲田での生活のなかで早稲田松竹で映画を観たのはたったの5回。今となってはもっと通っておけばよかったと思う。インターネットでの座席予約を受け付けておらず上映前に窓口に並んで座席を取らなければならないのが億劫で、どうしても観たい映画が無いとなかなか足が向かなかったことをとても後悔している。
『月の満ち欠け』はそれこそまさにどうしても観たい映画だったので、10時からの回を確実に観るために朝9時から寒空の下で開館待ちの列に並び、劇場中央のいちばん良い席で鑑賞した。
エンドロールが終わっても僕の目から流れる涙は止まらなかった。
本当に良い映画だった。この作品を早稲田松竹で観られたということは一生ものの財産になると思う。素晴らしい思い出ができた。感無量である。
映画のあらすじはこんな感じ。
1980年が舞台の過去回想パートで目黒蓮演じる大学生の哲彦(作中では””アキラくん””と呼ばれる)と有村架純演じる謎めいた大人の瑠璃が出会い、甘くかつ痛々しい時間を過ごしたのが高田馬場だった。
彼らは高田馬場のレコードショップで出会い、高田馬場ロータリーで再会し、高田馬場-早稲田間の神田川沿いの舗道で缶ビールを飲む。アキラは映画好きの瑠璃を探して早稲田松竹に通い詰め、高田馬場ロータリーの女神像の前で瑠璃を待ち続ける。
僕にとってはどれも馴染みのある風景で(もちろん作中の時代設定が1980年なのでVFXによってBIGBOXの高さや名店街ビルのテナントが当時の様子に加工されているけれど)、僕はアキラと自分自身とを重ね合わせずにはいられなかった(目黒蓮に自分を投影するなんてなんとも烏滸がましい話ではあるが)。
この街で年上の人と過ごしていた時期が、僕にもあった。
といってもその頃僕が付き合っていた人は僕と1歳しか違わなかったのでその点においてはアキラと瑠璃とは相違があるけれど、僕と彼女はアキラと瑠璃と同じように高田馬場ロータリーで待ち合わせたし、同じように飲み物片手に神田川沿いを歩きながらいろいろな話をしたし、同じように早稲田松竹で一緒に映画を観ることもあった。その人とは結局長く続かず今や完全に絶縁状態で、僕は彼女のことをもう何とも思っていない。ただ、僕にもこういう時代があったな、ということが何だか少し懐かしくなった。
この早稲田高田馬場という街を離れる直前にこの映画を早稲田松竹で観られたということは、僕の人生において今後大きな意味を持つにちがいない。
この街で出会った人たちのこと、この街で感じたこと、この街で学んだこと、そういった事々を、早稲田松竹でアキラくんと自分を重ねながら『月の満ち欠け』を観たという思い出が総括してくれたような気がするからだ。
正直なところ、この街でさんざん嫌な思いもしたし、辛いことや悲しいこともたくさん経験した。良い思い出のほうが少ないかもしれない。きっとそれはアキラくんも同じだろう。でも、この映画を観て、そういうチクっとしたりピリっとしたりする部分も含めて、この街の思い出を愛してみたくなった。アキラくんもきっとそうやって前に進んで大人になったのだろうな、という気がするからだ(さっきから””気がする””を多用しすぎている気がするけれど、憶測で物を言うしかない内容を語っているので仕方が無い気がする)。
この映画を通して早稲田高田馬場という街の思い出を僕にとって特別なものにしてくれた『月の満ち欠け』の制作者・出演者のみなさん、特に高田馬場パートの主演である目黒蓮さんと有村架純さんに心からの感謝を。ありがとうございます。
そしてこの映画を僕が東京を後にする直前という極めて奇跡的かつ運命的なタイミングで上映してくれた早稲田松竹には感謝してもしきれない。本当にありがとうございます。
さて、ここからが本題だ(僕が書く文章はいつも前置きが長すぎる)。
この映画が名作たるゆえんは、原作小説からの””翻案””の見事さによるのではないか、というのがこの文章で僕が論じたい話題だ。
早稲田松竹で『月の満ち欠け』を観て嘗てないほどに感動した僕は、二本立ての二本目(『月の満ち欠け』の作中でアキラと瑠璃が早稲田松竹で観た小津安二郎の『東京暮色』)の上映開始時刻までの20分の間に高田馬場ロータリーの芳林堂書店まで走り、佐藤正午の原作小説を購入した。
『東京暮色』を観終えて「なるほどなー、この映画が『月の満ち欠け』で引用されていたのは1980年の瑠璃の末路の暗示だったのか……」と納得し、稲門ビルの純喫茶ロマンで高田馬場ロータリーを眺めながら原作小説をめくった。
ものすごい文脈付けがなされた映画を2本も連続して鑑賞したせいで相当ハイになっていたからか、僕は1時間半で原作小説を読み切ってしまった。遅読家で有名な僕にしては異例の速さである。
原作を読み始めてすぐ、話のディティールが映画とかなり異なっていることに気づいた。””瑠璃””という名前を持つ女性の生まれ変わりを軸にした大筋は変わらないのだけれど、映画の脚本は小説に含まれている要素を大胆に整理して一本の強力なストーリーラインを引き直すようにして書き上げられたようだ。
この映画は原作小説に対して相当な翻案を加えていて、その翻案にこそ僕は強く惹かれたらしい。
というのも、正直なところ、映画を観てから原作を読んだ僕はこの小説をあまり好きになれなかったのだ。この作品で直木賞を取った佐藤正午のことを悪く言うつもりは無いのだけれど、何というか、「生まれ変わり」というモチーフを使って””現象””を描くことに注力していて、””人間””を描くことに主眼が置かれていないような印象が1ページ目から最後まで抜けなかった。
佐藤の""現象""への傾倒は「生まれ変わり」に振り回された正木竜之介が起こす事件についての記述にかなりのページ数が割かれていた点に顕著に表れている。この章で作者は正木の””人間””を書きたかったようには僕には感じられなかった。作中において正木は人間的な魅力が全くない舞台装置としてしか描かれていないからだ。彼の話を通して描かれたのは「生まれ変わり」によって生じる一つの悲劇的な事件という""現象""だけ。しかもその悲劇には作中の主要人物(主人公の小山内堅ともう一人の主人公である三角哲彦)は一切関与していない。にもかかわらず、筆者の文学的熱量の大部分がこの章に注がれているような手触りがある。
映画ではこのエピソードは完全にカットされている。
映画と小説の最も大きな相違点はこの正木の章のカットであるが、他にもかなりの変更がなされている。小山内の転勤族設定を廃したことで過去編の舞台が東京都内(多摩と早稲田高田馬場)に絞られシンプルになるなど簡素化されている部分も多々あるが、逆に映画化にあたって新たに追加された要素もそれなりにある。多くを語るとネタバレになってしまうが、特に1980年の瑠璃と1999年の瑠璃が迎える結末には原作には無い(かなり強い)文脈付けがなされている。
何より、人物の描き方が小説と全く違うのだ。映画は一人ひとりの人物の設定を徹底的に掘り下げ、(””悪””として描かれる正木を除いて)すべての主要人物のことが愛おしくなるような描写が意識的になされている。小説では生意気で人を挑発する癖のある””瑠璃””の系譜が映画では甘え上手で愛嬌のある人格として定義されていたり、アキラくんが瑠璃を撮影したことをきっかけに映像業界で活躍するシネマトグラファーになっていたり、そして何より、小山内堅が妻子の死を引きずりに引きずりまくっている中高年として描かれている。
原作小説では小山内は妻子を喪ったあとで別の女性と関係するようになっていると思われる記述があり、また「死んだ人間のことなんて考えても仕方が無い」というような趣旨の発言をしたり、また妻子のことより自分の身の振り方を優先するような思考を見せたりと(言葉を選ばずに言うならば)人間的魅力がかなり損なわれた人物に成り下がってしまっている感があるが、映画で大泉洋が演じた小山内は徹頭徹尾「家族のことが好きで好きで仕方が無い、愛に溢れたパパ」であった。妻子を喪ってから自分の感情を押し殺してきた小山内as大泉が、娘・瑠璃の親友だったゆいが撮影した瑠璃と梢の映像を観て東北新幹線の車内で号泣するクライマックスに僕を含む多くの観客が心を揺さぶられたのは、ひとえに小説より圧倒的に丁寧になされた小山内の人物描写ゆえであろう。
小山内と対照的に徹底的な””悪””の存在として再定義されたのが正木だった。映画で正木は1980年と1999年に重大な過ちを犯す。その過ちが主要人物全員の運命を大きく変えてしまうことになるが、その過ちの原因は正木という人間の持つ傲慢さであり、かつその傲慢さが首尾一貫したものとして描写されることによって複数の時間軸を跨いだこの物語に一本の強烈な背骨として機能するようになっている。そしてその正木を演じるのが””悪””や傲慢さのイメージとは程遠い田中圭。
この小山内と正木の翻案が本当に見事だったと思う。
言及し忘れていたが、そもそも映画版と小説版では物語の基盤がまるで違う。
小説版の基盤は「ゆいと””ゆいの娘””の瑠璃、そして三角との会食に呼び出された小山内が東京駅併設のホテルのラウンジでゆいと””ゆいの娘””の瑠璃と3人で話し、過去を紐解く」というものである。
それに対し映画版の基盤は「ゆいが””ゆいの娘””の瑠璃とアキラを高田馬場ロータリーで会わせる前に早稲田のリーガロイヤルホテルのラウンジに小山内を呼び出す」というもの。
小説版の筋書きは正直なところ、物語がどこに向かっているのか非常にわかりづらい。というか結局のところ、物語はどこにも着地しない。
それに対し、映画版は「””瑠璃””がアキラと再会するまでの物語」として一本の軸が通っている。それゆえ、映画のストーリーラインが高田馬場ロータリーでのクライマックスへとまっすぐに進み、そして綺麗に着地するように作られている。早稲田のリーガロイヤルホテルから高田馬場ロータリーまで瑠璃が走る、という最終盤のシーンに抜群のカタルシス効果が発揮されるのもこのためだ(そしてこのシーンのカタルシスのために1980年パートで高田馬場が至極魅力的に描かれている)。
繰り返しになるけれども、本当に見事な翻案としか言いようがない。
もし原作小説を映画を観るより先に手に取っていたら、僕はこの映画を観なかったかもしれない。純喫茶ロマンでたったの1時間半でこの小説を読み通すことができてしまったのは偏に映画の余韻ゆえのことであって、素面で原作小説を読み始めていたらきっと途中で読むのをやめていただろうし、極めつけには「なんだか””現象””ばかり描いていて””人間””を描こうとしていない物語だな。きっと映画もそんな感じなんだろう」とか何とか言っていた可能性が非常に高い。
危なかった………
というのも、僕はこの小説を何度も早稲田の文禄堂で手に取って買うべきか否か逡巡していたからだ。「映画を観るまでは買うのはやめておこう」と決断した過去の僕に拍手を送りたい。
原作つき映像作品における翻案の力。
これまであまり注目してこなかったことだけれど、このテーマはなかなか考え甲斐がありそうだ。
そういえば、僕が昨年末にハマりにハマったアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』も原作漫画からの翻案が素晴らしかった。原作は四コマが主体のライトな漫画なので、一つのエピソードを30分アニメに仕立てるにはセリフも描写もかなりの不足がある。そこでアニメスタッフがかなり大胆な翻案を行い、実写やコラージュ的な映像を交えたギャグパートを挿入したり、モーションキャプチャーを取り入れた見ごたえ抜群の長回し演奏シーンを随所に設けたり、そして最終回までずっとアジカンパロディを徹底したり。そういったアニメ化にあたっての翻案が口コミで広がり、人気に火が付いた。優れた漫画原作の翻案に大失敗した(と個人的には思っているしわりとみんなそんな感じのことを言っている気がする)アニメ『チェンソーマン』が同時期に放送されて酷評されていたことも踏まえて、『ぼっち・ざ・ろっく!』は原作翻案の重要性を象徴する一例であると言えるだろう。
話が逸れてしまった。
とにかく。
僕は東京を離れる直前に、早稲田高田馬場での生活の締めくくりとして映画『月の満ち欠け』を観た。『月の満ち欠け』は高田馬場の街を魅力的に描いて僕の思い出を彩り豊かに総括してくれただけでなく、素晴らしい原作翻案を成し遂げた名作であった。
作中何度も登場する、””瑠璃””という名前の由来。「瑠璃も玻璃も照らせば光る」ということわざ。すぐれたもの、美しいものは照らせば光って見えるからすぐにわかる、という意味だそうだ。
『月の満ち欠け』はまさに、そういう映画だった。翻案という光によって照らし出された、瑠璃のような名作映画。
この映画が、僕が東京で観る最後の映画になると思う。最後の映画がこの作品で、本当に良かった。早稲田高田馬場での生活の最後の1ページに刻まれたこの映画の思い出を、僕はきっと一生、忘れない。
決して美しい思い出ばかりではないけれど、この街での思い出を胸にしっかりと抱いて、前を向いて生きていこう。
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