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企業は個人のキャリアにどうコミットするのか


こんにちは。ひとりPR会社を起業した植田聡子です。今日は企業と個人のキャリアについて書いてみます。

私が民間企業から都庁に入って、最初に配属されたのは第一希望の「都立大学事務局」でした。1999年、まだ首都大学東京になる前、キャンパスは既に南大沢に移転していました。

私は希望通り大学に配属された

私は経験者採用という少ない採用枠で当時入都したのですが、同期で都立大学を希望していた人はいませんでした。やはり、同期は例えば政策報道室(現在の政策企画局)や総務局、主税局、産業労働局あたりや、技術職の方は建設局や都市整備局などのいわゆるハード局などに配属でした。

私自身、当時全国一小さい(1学年80人の単科短大)神奈川の県立短大出身でしたので、自治体の設置する高等教育機関に興味がありました。高校よりはるかに小さい短大での日々から、「広大なキャンパス」への憧れもありましたし、ベネッセを経て教育事業そのものへ関心を持っていました。

最初の配属が大学院の事務室で、学部を持たない文理横断の「都市科学研究科」でした。ここは研究科長が工学部の教授、その他、防災やGPS、公衆衛生や都市行政など研究分野がバラエティに富んでおり、学生も一般のマスターの他、都庁や消防庁からの派遣職員などの同世代もいました。毎日が本当に楽しく、また刺激を受けました。研究費の交付や執行、先生方の執筆や学会出席など、教授と院生の日常をサポートしていました。

都立の大学ということもあり、都政に役立つ研究で都政に貢献という研究科のミッションもあり、都庁からの執行委任で学内外との共同研究の事務局を手伝ったり。

その後、主任試験に合格し、当時は合格者は「絶対に局から異動」がルールでしたので、私の大学勤務は3年で終了となりました。

また希望どおり広報に異動できたけど

その後、税務を経て、天職の広報にどっぷりの8年間が始まるわけです。ウェブ、インナー広報、メディア対応、広報紙編集と一通り広報を極めたものの(結局、放送番組はやれなかったなぁ)、私の中ではずっと「いつか大学にまた戻りたい」とずっと思っていました。

産学官連携や学生のキャリア支援にも興味があったので、2年連続、都立大学一択で異動希望を出しました。

が、全く叶いません。

当時の生活文化局の人事担当が「全く局間異動させてくれない」のです。

評価してくれて引き止めてくれたことについては感謝しています。でも、やっぱり異動したいと毎年書いているのだから、少しは聞いてくれてもいいじゃないかと不満に思いました。それで、当時、首都大学にいらした元上司(部長)に相談してみました。

「私は大学に戻りたい。異動希望を書いても戻れないなら、首都大学のプロパーの職員の公募(東京都の職員を退職し、大学の職員になる)に応募したい」と伝えたところ、「それは一大事」と生活文化局の総務課長にわざわざ「植田さんを大学に異動させてくれ」と頭を下げてくれました。

当然、総務局(大学の所管局)の人事にも話をつけてくれて、ウェルカムモードで待っていてくださいました。人事異動はいつもなすがままの私でしたが、よそ様のお力をここまで借りてまで異動しようと思ったのはこれが初めてでした。

これで異動できると思ったら

でも、生活文化局の人事は、私の元上司にこのように伝えたそうです。

「今の広報は(知事選が続いて)非常に難しい時期。余人に代えがたい」

こんなに手を尽くしたのにやっぱり異動できません。やっぱり局から出られません。
その代わりに、「局間異動では出せない代わりに、局内なら行きたい部署に行かせてあげるよ」という謎のバーター交渉となりました。私は、そこで「消費生活部」という、広報とは対極のような、法令に則った部署を希望し、異動させてもらいました。

「消費者行政」がやりたかったというわけではなく、私よりもはるかに詳しい人々が多数いる部署ならもう「私は余人に代えがたい存在ではないはず」という企みがあったのです。「ここで2年頑張ったら、大学だ!」としつこく野望は捨てずにいました。消費生活部はそれはそれで楽しかったのですけどね。

大学から離れて10年となり、プロパーの職員が増え、当時の都立大学のことを知っている職員が減ってしまっているのも気がかりでしたし、むしろまた頑張りたいと思っていました。

それでも結局、私は異動できなかった

結局、私はその後、オリンピックという奥の手を使わないと、生活文化局からは異動できませんでした。

個人のキャリアってなんなのだろう、と改めて今思っています。

確かに、広報も文化も向き不向きがあって、私は「向いているように見えた」のでしょう。でも、私がやりたかったことは、大学の事務局なのです。これは教育委員会の下で都立高校とは違うわけなのです。高等教育、大学の自治が認められ、自由な校風(これについては今となっては賛否あるでしょう)で研究を進めている教員をサポートし、学生の就職支援もして、大学の存在感を高め。いつかは「ノーベル賞」が出ると信じていましたし。

あの時、大学に異動できていたら、私はそこでプロフェッショナルを目指していたかもしれず、結果として退職せずに済んだかもしれませんね。

自分のキャリアは自分で選択する

2012年、産能大のキャリアデザインの授業で、金井先生の『働く人のためのキャリア・デザイン』という本を読みました。キャリアについてよくまとまっている著書で、感銘を受けた一方、自身のキャリアについてあまりにも主体性なく流されてきたことに愕然としたことを鮮明に覚えています。

企業に属する(私の場合は地方自治体でしたが)ということは、人事も組織の理論が優先され、個人の希望は二の次なのだと認識しました。「あいつ、いらないから出してしまおう」と思われなかったことはもちろん感謝していますが、一方で、「やりたいことをやりたかったな」という気持ちはずーっとくすぶったままでした。

今、大学院に行って、また違う大学の雰囲気に触れたり、キャリアに関する勉強も進めてみると、私が公務員を辞めたのは、主体的なキャリアパスの選択を断たれたことが一番の理由だったのだ、と痛感します。

厚生労働省は、キャリアコンサルティングについて、企業領域での活躍を期待しているとのことですが、本当に使用者(経営サイド)が個人のキャリアにどこまで向き合うか、ということに対し、一抹の不安が残ります。

キャリアコンサルティングによって離職率が低下するとか、一人一人の生産性が高まることに寄与するなど、将来的な企業の利益につながるかもしれませんが、今日明日に「儲かる」話ではないわけです。その辺りを腹落ちして、経営サイドが理解した上で取り組まないと、私のようなもやもやした気持ちを持ってしまいそうですね。。。


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