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過去を取り戻そうとする自分と未来を見たいと考える自分とのせめぎあい。足元に風、どれだけの奇跡が今積もっている

かつて存在していた慈しむべき場所。
いつか手にした「風の辿り着く場所」

もう一度触れたい思うのは懐古か逃避行か。
私はいつだって未来を見ていたい。
だからこそ、あの頃掴めなかった可能性を辿りに行きたいと考えてしまう。

今、悩んでいることがある。
Nintendo Switchにてかの名作【Kanon】を再度プレイするか否かを。

今は遥か存在した先史遺産PSPにてやって以来はたと触っていなかった【Kanon】をまたやりたいという想いが燻っている。

別にやりたきゃやりゃいいじゃんと。その通りである。
だがそうはいかない心の引っ掛かりがあるから悩みというものは生まれる。

ためらいの原因とは、心の甘えだ。

私の心には買ってこそいないがやりたいと思っているギャルゲーが山程積まれている。
それらに手をつけず、すでにクリアしたギャルゲーをもう一度やるというのは逃げであるとしか捉えられないからだ。
それは地雷を踏む心配なく安全圏から新たな力を得ようと甘ったれているだけに過ぎない。

そう、往々にして過去好きだった作品に再び触れるという行為は探訪よりも逃げの気持ちが強いのではないかと思ってしまう。
本当はそんなことないはずだ。
映画や漫画のような数時間で触れられるものならばまだ良い。相手がギャルゲーとなればやはりそれなりにまとまった時間を要する。

なればこそ世界に存在する未だ触れぬ名作たちを差し置いて「好きだった」という保険に逃げる行為に対して甘えを感じてしまうことも必然だろう。
費やした時間の果てが「ぶっちゃけ面白くなかったな」になるのは怖い。だが向き合わなければ新たな発見はない。

なにが恐ろしいかといえば別にそこまで狂うほど【Kanon】が好きというわけではないということだ。リアルタイム世代というわけでもない。
確かに面白くもあり刺さるところもあった。しかし言ってしまえばその程度止まりのゲームだ。

私が好きなのは栞と名雪である。それ以外も一応全ルートやったがあまり覚えていないと言っても過言ではないレベルのものだ。
しかしゴッドライター久弥直樹のシナリオに脳を焼かれ再プレイを望むほど刻み込まれたものがあるのは事実。

名雪と栞の日常に存在する奇跡の形こそ美しさの化身。普遍にして不変だと錯覚するような日々。いつ儚く失われてもおかしくないけどいつでもそこにいる当たり前。
そんな当たり前が当たり前にあることを奇跡と呼ぶような細やかな幸せと無常観は本当に美しい。今でも両ルートは掛け値なしに素晴らしい話だと言える。

人はいつか死ぬなど当たり前の話。しかし栞ルートのそれは毎日その恐怖を感じさせる。
いつか死ぬと分かっているから当たり前に連続してきた日々が美しい。どんな人間でも死を待つ以上避けられない。病があろうとなかろうと人間はいつどこで死んだっておかしくない。
だからこそ都合の良い奇跡を求めてしまう。他の人間と同じように緩やかに感じるそれを栞にもそうあってほしいと想うことは傲慢であろうかと。
細やかな日常に細やかな奇跡が降り注いでほしいと願える。そんな栞ルートが好きだ。

だからこそ戦う価値があると感じているわけだ。
いうても私が【Kanon】をやったのなど高校生だかなんだかのギャルゲー接種適齢期であるものの性癖の開拓者としては若輩も若輩。
良し悪しや得るものの大小は別として必ず新たに得られるものはあるはずだ。

特に舞ルートなど今の私ならどんな理屈を持って理解しようとするのだろうか。当時の私は理解を諦めたことは覚えている。
牛丼だかなんかを買いに行って帰ってきたらぶっ倒れていたあの辺から脳みそが思考をやめたのはよく記憶している。

人はノスタルジーへ絶対に抗えない。過去を取り戻したい生物なのだ。
この現象はKanonやりてえな期の今に限った話ではない。
初めて触った本格的なギャルゲーである【夜明け前より瑠璃色な】だってSwitchに移植が来たらいつだって飛びつくだろう。
初めてやったエロゲの【夢みてナイト!】だって同じだ。移植さえ来ればいつだってやる。

かの偉大なる男「ウォルト・ディズニー」も現状維持は後退でしかないと言っている。やはりいつだって新しいことを追いかけていたいところだ。

そう、最も重要なことは新しきを求めるという点にある。

懐かしむのが目的だっていい。そんな中に新たな光を求める気持ちがないといつだって虚無が虎視眈々と背後から迫りくる。
オタクとは足を止めたら自らの虚無に殺される生物だ。
あるいは得ていたかもしれない可能性。本当はほしかった光。オタクとして生きるために削ぎ落としたそれらはオタクであることをやめた瞬間に牙を剥く。

これは自分自身への戒めである。あの頃の気持ちを感じることに意味がないとは言わない。
だがそれ以上に得るものを求めない限り私はそれまでの生物になってしまうからだ。

だからこそ私は逃げない。逃げたくなる弱い心を下したと思う偽りの強さに甘えない。
キカイダー理論だ。自分の中に悪の心があるからそんなものに負けてはならないと正義の心がより強くなる。
私の中には弱さがあるからこそ負けてはならないと強くなれる。

懐かしのものに触れないことは強さではない。それもまた一つの逃げだ。
懐かしさを否定しない。そのうえで新たな光を掴みに行く。それこそが強さだろうが。こんなにまた強くなれる。私はもう最後まで笑っている強さを知っている。

曰く、世界中にはどんな想いも叶う日が来る。
それは奇跡に起因するものか。そのものを奇跡と呼ぶのか。

足元で燻っていた日常に積もっただけの奇跡。
それに触れる時は近づいている。

新たな奇跡を知るために、な。

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