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前へ進まず取り残されて迷子。「長崎そよ」だけが俺の魂【BanG Dream! It's MyGO!!!!!】

この雨が上がってく時
なにもなかったように消えてく
傘花みたいに心は
上手に折り畳めないから

壱雫空/MyGO!!!!!

私はバンドリのオタクだ。故に【BanG Dream! It's MyGO!!!!!】を見ている。このアニメは非常に面白い。

各々事情と悩みを抱えながら、自分が迷子であっても進む。
「迷子でもいい、迷子でも進め」そのキャッチコピーに相応しくこのアニメは迷いながらも必死に前へ進み続ける女の子達がメインだ。

その中でも「長崎そよ」という存在はバンドメンバーの中でも特に特筆すべき頭一つ抜けた好きな存在である。

アニメにおいては紹介文の通り優しく周りに気が利くお姉さん的存在だった。だがかの名画を生み出した7、8話において奴は弾けた。
そよだけ「迷子」という意味のベクトルが根本的に他のメンバーと違うのだ。それでいて誰よりも卑劣で利己的でわがままだ。だから彼女は美しい。

「迷子でも進め」その言葉の真意はそよにこそ当てはまると言っても過言ではない。


置いていかれて迷子

過去に執着しそのためだけに本気になれるそよは他のメンバーと大きく毛色が異なる。
迷いながらも進む、どこへ向かえば分からないけどとりあえず進み続ける、どこに行くかじゃなくて誰と行くかを重視する、どこにいるのか分からない(物理)。そんなバンドメンバー毎に各々が「迷子」であるのだがそよだけは事情が違う。
彼女は「前に進む気がない」から立ち止まっている。あるいは取り残されていると言っても良い。だから迷いながらも前へ進むメンバー、あるいは先へ行く人から置いていかれて迷子になっている。これである。長崎そよという女の真髄は。

かつてそよ、燈、立希を含む5人で組んでいた「CRYCHIC」。今はない、存在していたバンド。
燈はCRYCHICに対して解散してしまったこと、みんなを繋ぎ止められなかったことへのトラウマを抱いていた。同じくバンドメンバーだった立希は特別な気持ちを抱いていない。だが2人とも各々の形で解散という事実を受け入れている。
だがそよだけは違う、彼女はCRYCHICに永遠を見ていた。それはトラウマでもなければ乗り越えるべき過去でもない。
そよにとってのCRYCHICは美しい日々であり取り戻さなければならない世界である。だから彼女は過去に執着していた。
楽しかったあの日々を再現しようと奮闘していた。だがそんなものは叶うはずもない。
過去を取り戻そうとする彼女は一人だけ取り残されている。CRYCHICは終わったのだという事実を受け入れられずにいる。その先へどこにも進めないし進む気もない、停滞の迷子だ。

愛音たちが組んだ名前のないバンド、目的も目指す先も全然違うメンバー達。そんな中でたった一つ、共有していた真実がある。
それは「前へ進み続ける」こと。それだけが彼女たちの唯一の共通点である、そよ一人を除いて。
そよの望みはCRYCHICを復活させること。そのために愛音を利用して燈と立希を繋ぎ止めた。祥子と睦が加わればCRYCHICは元に戻る。彼女の叶うことのない望みはそれだけ。
どこへも進むことなく、叶うことのない望みのために周囲を利用して振り回す。これを迷走や夢想家という言葉で片付けることは許されない、これもまた迷子なのだ。そよも、しっかりと迷い続けている。

だから彼女の他のメンバーとは一線を画した迷い方には悲痛さと愛おしさを感じられる。
「迷子でもいい」という言葉はCRYCHICの復活という目的も進む先も明確に見据えていたそよにとっては見合わない。この言葉が彼女に似合うようになるのはその夢が破れてからとなる。
そよが本当の意味で「迷子」になるのは7話のライブ後だ。そして彼女の見せないでいた、本心や本性が溢れ出て私の好きが迸るのもそこからだ。

他人を利用できる、自分では何もできない

私がそよに対して心震わされたもの、それはその強さと弱さ。したたかに振る舞い他人を利用するが自分だけでは何も出来ない。何かを創ることも出来なければなげやりになって全てを壊すこともできない。
この壊すことのできない弱さにこそ性癖をガンガンのガンに刺激された。

それらは特に7話のライブシーンから伺える。やる予定のなかった【春日影】が流れ出し他のメンバーも演奏を始める中、そよだけは躊躇いながら演奏をする。
本当はやる気もなければやりたくもなかった。なぜならば【春日影】はCRYCHICの曲だから。でも流れてしまった曲を止めることはできなかった。苦い顔をしながらもなんだかんだで結局完走してしまった。そしてライブ"は"成功した。CRYCHICを復活させるというそよの計画の崩壊と引き換えに。

この【春日影】を完走してからキレ散らかす場面、ここからは彼女の生い立ち、特に9話にて明かされるルーツが深く絡んでいる。幼い頃から周囲の人間の顔色を伺い望まれるままに振る舞ってきた生き方。本当は【春日影】を演奏したくないのに、するべきではないのに他のメンバーに流されて演奏を続けてしまう。
更に泣きながら飛び出す祥子を目の当たりにした際も、葛藤はするが結局はライブを捨てて追うことはできなかった。そこにこそ前述した絶対的なそよの弱さ、育ってきた土壌と人格が伺える。
他人の顔色を判断基準に生きてきたから自分の本当の望みの為に本気になれない。他人を利用しているが、彼女もまた利用されている。利用されていることに気付けていないし人格が縛られていることにも気付けていない。ここである、性癖の爆弾は。

ライブ中に出来なかった感情の爆発はライブ後に八つ当たりにも似た形で昇華される。

「なんで春日影やったの」

感情を露にする様は非常に素晴らしかった。ステージでキレて中断させることだってできた、祥子を追ってステージから飛び降りることだって出来た。
でもそれをしなかった、最後まで演奏を完遂した。CRYCHICではない、名も無いバンドのベースとして。
彼女はこの時点で客観的に見て受け入れてしまったのだ。【春日影】がもうCRYCHICの曲ではなくなったことを。それを誰でもないそよ自身が、CRYCHICでないバンドで演奏しきるということで証明している。

だからこそ「なんで春日影やったの」という言葉が染み渡るわけだ。そう、その通りだ。この言い方、彼女は全てを人のせいにしている。別に嫌ならば止めねば良かった、いくらでも中断させる手段はあった。だけど彼女は全ての選択肢を選ばず、それでも【春日影】を完走することを選んだ。
そんな自分を棚に上げてメンバーへ対してキレる、ここが100点。
だからこの言葉は八つ当たりであり、やり場のない怒りである。なぜならばそよ以外の全員は【春日影】を演奏することに対して肯定していたから。
それなのに【春日影】を演奏したメンバーのせいにしてキレる、これである。綺麗なガワに醜い内面、これだ。こういう女を待っていた。

この歪な人間性、その暴力的なまでの自己中心性。それを翌話では祥子に突かれる。そこでこの腕にしがみつきへたれる名画が生まれるわけだ。

そう、そよは誰よりも自己愛に溢れて自己中心的だ。自分にとって特別だった居場所を取り戻したい、美しい過去を復元したい。それだけなのだ。それだけの為に自分を殺して周囲に合わせて他者を利用し自分もまた歯車の一つとなる。
その望みが独り善がりだと気付いていない、他のメンバーの心情と感情をまるで加味していない。

また、睦への当たりの強さも特筆しなければならない。なぜ睦に対して当たりが強いのか、その答えは明確。睦は気弱で言い返してこないから。それでいて、自分の思い通りにならないから。「やってほしくないことばかり言う。お願いしたことはやってくれないのに」その言葉がそよから睦への思いの全てだ。
自分の思い通りにならないから怒り、攻めたて、更にお前が悪いんだぞということで罪悪感を駆り立てて思い通りに動かそうとする。伝書鳩の躾が非常に巧妙だ。

削ぎ落とされなかった少女性は「醜さ」ではない

私はこれらから見えるそよの自己中心性を敢えて「わがまま」と呼びたい。それは彼女が本来子供の頃に済ませておくべき感情の奔流。周囲の顔色を伺って育ってしまった子供だから、わがままを言う事が出来ていなかった。だからそれを咎められなかった。
そんな彼女の中の「少女性」をしかと見て取ることができる。今まで抑圧されてきたものが爆発しているのだ。それは追い詰められれば追い詰められるほどより濃い輪郭となる。

かの名画、祥子の腕にしがみつきへたり込む場面。あれも同様だ。他者を引き止める術を物理的に引っ張ることしか知らない、やれもしない無責任な言葉を吐くことでしか相手の気を引けない。「一生のお願い」といった言葉を使用する子供に良く似ている。
一見すると祥子を思っての言葉ばかりを吐くが、その根底にあるわがままさと自己中心性を祥子はしかと見抜き「おためごかし」とばっさりと切り捨てられる。
不誠実、という言葉は相応しくないだろう。なぜならばそれはある程度の大人に対して使われる言葉だから。彼女は誰よりも少女のままだ。だというのに大人のような振る舞いができるから非常にたちが悪く、そこが最高なのだという話。
そんな素行からそよ自身の育ちの土壌、その人格のルーツをしかと見て取ることができる。

全てを自分本意に考え、本質を何も理解していない。勝手に祥子が【春日影】を演奏されて悲しんでいるものと決めつける。自分がそうであるように同じであると思っている。そうであってほしいと思っている、のではない。そうだと思っているのだ。あまりに愛おしいだろう。
独り善がりで独善的、何よりも自己中心的。だがそれこそが美しい。他人の顔色を伺い、自分を周囲に染めて生きてきた女が手にした真の望み、エゴ。それが過去を取り戻すこと、初めて自分が本当に必要とされた場所を取り戻すこと。
その為にかつて発揮されることも削ぎ落とされることもなかった少女性は取り戻され、抑圧してきた自我が暴走を起こしている。魂がカタルシスを求めている。
本当に求めるものの為に本気になれる人間は美しい。それが否定されて折れる様はもっと美しい。そしてそこから這い上がる様が一番美しい。

これらの行いと思考回路そのものは醜悪なものである。だからこそ美しい。並の人間ならば育ちの過程で削ぎ落とされる過剰な少女性やわがままさを根底に残したまま他人の顔色を伺い生きる処世術を抱えて生きている様は美しい。それを醜いと呼ぶのはあまりに風情がない。
そよのコミュ力と体外的な当たりの良さは大人びているし、学校の友人や部活動の間では非常に友好的な関係を築けている。だがそれらの関係性は彼女にとって永遠ではない。永遠はCRYCHICだけ。だから本気にならないしなれない。

月ノ森へ中学から編入して馴染んで「ごきげんよう」というシーンなど非常にこれらの要素を強く含んでいる。すぐに周囲へ溶け込み、適応できるという性質。
それから付け焼き刃の高貴さ、母に勧められるがままに月ノ森へ入った芯のなさ。上辺の長崎そよという存在の薄っぺらさをこれでもかと描写されている。

引っ張り連れてこられた本当の居場所

10話においてそよは本当の意味で救済を成される。優等生でみんなに優しい、みんなに求められる「長崎そよ」ではない。本当の自分。
嘘つきで自己中心的のひどい人間、でもあの名前のないバンドで唯一無二のベース。ただ一人かけがえのないバンドメンバー、運命共同体としてその存在を求められる。

愛音によって手を捕まれ、引っ張り上げられる。流されるのではない、引っ張られる。この違いこそが彼女の魂の救済へと繋がる。
【春日影】を流されて演奏した時もそうだ。そよはずっと周囲に流され自分を合わせてきた。だが10話のライブシーンにおいては違う。
彼女はステージに上がることを拒否した。それでも引っ張られ、自身が裏切っていた愛音によりステージへと無理やり引っ張り上げられる。動機は違うし歪だった、それでも事実として2人で始めたバンドだから。愛音に手を差し伸べてバンドを始めたそよが、その手を愛音に引っ張られることで本当の意味でバンドは再始動する。終わらせにきて、本当の始まりに火を点ける。

そしてベースを渡され、その場所に立たされて初めて気付く。
自分がこのバンドにとってかけがえのない唯一無二の存在であると。数合わせや頭埋めではない、嫌がるそよを無理やり連れてくることにこそ意味がある。そよでなくてはダメだと、必然と必要を両方表している。
そして彼女は初めて、本当の意味で自分が必要とされていることを知る。だから涙が溢れて止まらなかった。これが本当に生まれた、図らずも愛音と自分で作り出した本当の居場所。等身大の長崎そよが生きる場所。

11話において学校の友人に放課後誘われた時は答えを曖昧にはぐらかして角の立たないように言っている。
だがその後の愛音達バンドメンバーに対しては「春日影はやらないから」とはっきり意思表示している。言い方もキツく学校への友人相手にはありえない態度だ。わがままで生意気な少女の面影が消えない子供のままの姿。
そんなありのままで触れ合える居場所を作ったのは間違いなくそよ自身だ、だがそれ以上にそこへ引っ張ってきてくれたのは愛音たちの存在が大きい。このバンド完成と共に魂の救済が成される構図には美しさという言葉だけが残る。
バンドでのわがままで飾らない姿が素のそよ。でも学校や母の前での姿もまた間違いなく本当のそよだ。表と裏の差が激しいだけでそこに偽りはない。どちらも本物。全部全部僕だから。

そして特筆しなければならないのは飾らなくなった素のそよの態度、行動からその滲み出る唯我独尊ぶりだ。
やはり何よりも愛音の家で衣装作ってた時の「徹夜はしない主義」発言があってソファで寝ていたこと。それだけなら何もないがあのまま朝までぐっすり寝ているの、これが本当に耐えられない。あまりにも愛おしすぎて本当に耐え難い。
ちゃんとした生活リズムの確立だ。あんなごりごりキャリアの母を持ち、基本的に一人暮らしと変わらないはずなのにあれほどまでに綺麗な部屋と生活リズムを確立しているのは素の生活の良さを伺える。
顔をソファの背もたれ側に向けて寝顔を見せないようにしているのも警戒心の強さを感じられて非常に好感が持てる。こういった細かい"リアル"にこそ命は宿る。こういった魅せ方による描写は実にバンドリらしく生きた魂を感じられてとてもキラキラする。

もしこの雨が上がっても

巷では鬱アニメだなんだと言われているこのアニメだが私はそうは思わない。ギスってぶつかってという展開があるだけで基本的に登場人物は前を向いているからだ
どこに向かうかはわかっていないが未来を向いている、だから本質的には非常に前向きなアニメである。

ただ一人、そよを除いて。前述の通り、そよだけは過去の栄光に縋りついている。だからこそ彼女は美しい、迷いながら、ぶつかりながらも進む他のメンバーとは抱えている悩みの根幹がズレているのだ。
やはりそれは【春日影】の演奏に対する想いの違いから顕著に見てとることができる。そういった確執と魂のぶつかりあいは非常に素晴らしかった。

それでも、そよだって未来は見ていた。CRYCHICを再結成してやり直す、過去を再現するという未来。そんな矛盾に気付けないほど彼女は必死でロマンチストなのだ。歪ながらも前は向けていた。それもまた「迷子」の形の一つである。

10話のライブシーンのような音楽の力によるバンドの再結成などはバンドリブランドならではの美しい力押し展開であった。あの朗読からの演奏はきらきら星で培った魅せ方の到達点であろう。
私はバンドリSwitch勢なのであまりにも多くのことを知らない。いつかSwitch版にも迷子ちゃん達が参戦するのだろうか。その時はぜひそよさんの右エピで気持ちよくなりたい。ごりごりによそ向けそよさんから段々豹変していってもらいたさ以外の感情、この世には必要ない。

そして絶対にこれだけは言わなければいけないが【壱雫空】1番サビの歌詞の儚さと美しさ、そして本編再現パワーは本当にかつてなく群を抜いて素晴らしい。

この雨が上がってく時
なにもなかったように
消えてく傘花みたいに心は
上手に折り畳めないから
過ぎ去ってしまう瞬間を
僕は集めたいよ ああ ひとしずくを

壱雫空/MyGO!!!!!

辛い現状が過ぎ去った時、それがあたかもなにもなかったかのように、何もかも忘れてすぐに処理することは出来ない。それは折り畳めばなくなる傘のように消えない、そんな気持ちに折り合いを付けてそんな瞬間もあったねと仕舞うことはできない。時間をかけることでしかゆっくりとしか解決させることは出来ない。

だからそんな風に迷い、悩んでいる間に過ぎ去ってしまう時間こそ集めたいと。雨が上がってもさし続ける傘から雫が溢れ堕ちるように、そんなひとしずくこそ愛おしいのだと言っているのだ。
この強解釈の奔流は非常に的確にMyGO!!!!!そのものを表しているといっても過言ではない。
迷ったこと全てを集めたい。「迷うことを迷わない」その言葉を肯定する歌詞としてこれ以上美しいものがあるだろうか。不器用ながらも抗い続ける様は本作のなんたるかをこれでもかと現している。

特にそよは過去、つまり過ぎ去っていくひとしずくにこそ執着して戦っていたので他のメンバーとはこの歌詞の解釈も一味違ったものになっていく。
そういった面で見てもやはりこの女、他とは一線を画した拗らせ方をしており非常に面白い。7話を皮切りにどんどん本当の自分を曝け出し、本音を吐き出していく様は雨が上がりさしっぱなしの傘から残った雫が溢れ落ちていくようだ。

さてここからは未来の闘いになるがこれからもコンテンツが進むのであればどんどんそよは確執を解消し、浄化されていくのだろう。
私は最初バンドリに触れ始めた時、紗夜さんが最も好きであった。彼女の日菜ちゃんへの燃え盛る劣等感と卑屈さこそ魂を燃やすに値した。だが徐々に確執が解消されていくにつれ、好きは萎んでいった。

そう、即ちこの手のマイナス感情に燃える生物に浄化はつきものだ。その後に何が残るのか、真っ白な灰だけが残るほど燃やし尽くしてくれるのならば良し。ぜひそよには祥子と、ひいてはCRYCHICのことでいくとこまでいってほしい。
鉄板のところで行くと祥子がなんらかの心変わりでやはりCRYCHICを復活させようなどと言ってきて葛藤したりなどは来そうな気もするし絶対に見たい。

未来の杞憂に希望と絶望を抱くほどに私にとって長崎そよという存在は強大なものとなった。やはり何度でも言うが祥子の腕にしがみつく名画までの流れはあまりにも美しすぎた。
特にライブ後にいきなり余韻ぶち壊してキレ散らかすのがあまりにポイントが高すぎる。あんなステージ脇で大声出してキレたら恐らくステージ上のポピパにも聞こえているだろうし普段なら想い至るであろうそういったことを考えるほどの心の余裕がなかったことを伺えるところも美しい。

この永遠を抱きしめている限り私はそよさんのことを好きでいられる。これからの彼女にも期待して追い続けよう。

もし、この雨が上がったとしても。

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