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曇らせ、尊厳破壊、そして関係性。人生のバイブル【ランボー】には俺の全てが詰まっている

It's a long road
And it's hard as well

It's a Long Road

私はこの世で【ランボー】ほど美しく儚くヒロイックな映画を知らない。
何度見ても色褪せない悲壮さによる美しさと破壊のカタルシスに心は支配されている。

なによりもやはり救われず報われない。戦いたくないが戦うことしかできないランボーという男の苦悩は他の追随を許さない魅力を宿している。

というわけで先日ランボーの4Kリマスターを映画館まで観に行ってきた。
何度も見た作品であるが本当に心の底から感動したし涙が止まらなかった。
思えば果たして生涯で最も好きな映画を映画館の巨大スクリーンで観ることができる機会というものはどれほどなのだろうか。
その想いを噛みしめるほど、感動とカタルシスの程は増していった。

私は人生で一番好きな映画を挙げろと言われたらまっさきに【First Blood】即ちランボーの一作目と答える。

孤独に戦い生き抜くランボーのかっこよさに魅了されていることは言うまでもない。圧倒的な強さと目先の痛みや権力に屈しない姿は見ていてあまりに健気だ。

しかしそれ以上にやはりランボー最大の魅力は「弱さ」だ。「脆さ」と言ってもいい。
ランボーは戦場ではグリーンベレーの英雄だ。そしてゲリラ戦において右に出るものはいない。
だが戦争のない町中において彼は軍人でもなければ一般人でもない。戦争帰りの人殺しというレッテル以上も以下にも成ることが出来ていない。
ベトナム戦争は終わったがランボーは戦争の中でしか生きる術を持たず、戦争のない町中で彼が評価されることはない。

鍛え抜かれた肉体と不屈の精神で戦うアメリカ的英雄要素を持ちながら才能と努力次第でスターダムへのし上がっていけるアメリカンドリームを否定されている。

この矛盾こそがランボーの美しさに起因する。
アメリカ然とした英雄でありながらその恩恵を受けられる機会を一切与えられない。

だから【First Blood】には夢の始まりがない。
立ち寄った町で保安官に目をつけられて戦いへと発展する。そこにはドラマもなければ運命もない。
ただ巻き込まれて戦い続ける。そして最終的には逮捕される。
救いはない。彼にとって逮捕であり管理社会へ行くことが救いだったと次作【怒りの脱出】では判明するが一作目の時点では何も分からない。

この圧倒的な無常さ。本当に唯一無二の空気感である。だから私はこの映画に心から魅了されている。

本作は常に悲しい空気が漂っている。
誰も救われることのない戦いだからだ。ランボーは戦うほどに相手に被害を負わせるが彼自身は幸せを得るために戦っているのではない。戦うことしかできないから戦う。
トラウトマン大佐の創り出したグリーンベレーの最高傑作は人間社会で生きていけるようには適応されていなかった。戦場ではどんな悪辣な環境でも耐え忍び生きられるが戦いのない町には居場所の一つもない。

ランボーの暴力は常に悲しくて美しい。
彼は戦場で人殺しのエキスパートとして育てられた。実際に多くの人間を殺してきた。
だが作中において自分の意思で殺した人間は一人としていない。ガルトは死んだが結果として死んだだけ、殺そうという意思はそこにはなかった。

人殺しのエキスパートが敵対者を殺さないように戦うという矛盾。そこにあるのは殺したくないという人間らしい意思なのかあるいは自分は人殺しのマシーンではないという反骨の現れか。
どちらにせよその真意は最後になるまでトラウトマン大佐を始めとした誰にも伝わることはなかった。

事実として「自分の意思で殺していない」という前提が存在するからこんなにも美しい。
自分を殺そうとしてくる敵対者に向けて殺さないように無力化していくという行為は殺人マシンには出来ない。
これはランボーの兵器としての弱さであり戦場においても削ぎ落とされることのなかった人間性の賜物だ。
これを理解できていなかったからトラウトマン大佐はランボーの説得に失敗し続ける。
彼にとってランボーは自身が創り上げた兵器の最高峰でありアイデンティティそのものであるから。最高傑作が色褪せたと思いたくはないから。

トラウトマン大佐の創り上げた部隊兵器達はランボーを残して全員死んだ。残ったランボーはトラウトマン大佐にとって自分がグリーンベレーで戦い抜いた証拠であり存在証明に他ならない。
しかしランボーも人間だった。人はどれだけ鍛えられようとも殺しに徹するマシンにはなれない。ましては戦争のない世界ではなおさら。
再開した時点でもうランボーはトラウトマン大佐の創った兵器ではなかった。彼は人間へと戻りたがっていた。
だが元人殺しで身寄りのない人間に居場所はない。落ち着ける場所などなくどこへ行っても戦いに巻き込まれる。
その孤独と苦悩を真に理解出来ていなかったから説得には失敗し続けて最後の場面まで心を読み違える。

トラウトマン大佐はランボーをまだ自分が作った兵器のままだと思っていた。だから彼へしきりに「任務は終わった」と声をかけていた。戦場にいたカラスであったらこの言葉でコントロールできるから。
しかしそこにいるのは戦争に人生を狂わされた一人の男「ジョン・J・ランボー」である。大佐の作った「カラス」ではない。
戦いを止めようとする大佐もずっとランボーを戦場にいるままにしていた。戦場にいた時と同じ感覚で「任務は終わった」と言い続けていたわけだ。

このランボーと大佐のすれ違いと歪な関係性は本当に美しい。彼らは上司と部下という関係からシリーズが進むごとに友情へと変わっていく。3作目の【怒りのアフガン】とはまさしく2人の友情を描いた物語であるがここでは余談に過ぎない。

上記の全て、ランボーが抱えていた苦悩と悲しみ、そして孤独。
これら全てを理解することでランボーによる最後の独白を真に味わうことができる。
これをなくして初代ランボーの魅力とは語り尽くせない。ここがランボーを神の映画へと押し上げている。

「Nothing is over」──なにも終わっちゃいない。

この言葉がランボーの全てだ。
トラウトマン大佐が用意したベトナム戦争を勝つためのグリーンベレー部隊。それらの戦いは敗北という結果に終わった。確かに彼にとっての戦争は終わりを告げていた。

しかし生き延びたランボーにとって戦争がもたらした悪夢は何も終わっていなかった。
戦争の後遺症で死んだ仲間、カミソリを研いでいる姿や羽交い締めにされるところなど日常の中に戦争中の記憶をフラッシュバックさせる存在がある。靴磨きのガキに殺された友人の最後も毎日思い出し苦しむ。
戦場では英雄だったがそれは人殺しという消えない烙印を彼に焼き付け日常生活を困難にさせたのだった。

ベトナム戦争は終わったがランボーにとっては何も終わってはいない。それを分かった口で任務は終わっただと言いなだめようとするトラウトマン大佐にランボーは全てを曝け出したのだ。
悪夢は何も終わっていない、自分がどうすればいいのか分からない。そんな一人の「人間」に対していつまでも「兵器」への言葉をかけ続けたこともこの戦いの片棒を担いでいる。

ランボーの悲痛な叫びを聞いたからこそ最後にトラウトマン大佐は彼を抱きしめる。泣き喚くランボーを何も言わずただ抱きしめる。
ここで初めて2人は人間同士手を取り合うことが出来た。ランボーは戦場以外で初めて理解者を得ることになる。

ここにおいては映画を見ている我々もトラウトマン大佐と同じでランボーがただの殺戮兵器でなかったと思い知らされる最もショッキングな場面だ。
だがここがあるからこそ初代ランボーは凡百の反戦映画で終わらない、唯一無二の美しさを抱いた作品である。
圧倒的な暴力と破壊のオンパレードでゲリラ戦における最強生物であるランボーを見せつけられ続けた最後にこれなのだ。
彼の苦悩を知ってからまた映画を見返すとバトルシーンや町を破壊するシーンも手放しにカタルシスを感じられなくなる。
その影にはランボーの苦悩があり「ランボーの戦争は続いている」という事実が常に頭の中に存在し続けて見ていて苦しくなるからだ。
その息苦しさ、苦悩の息吹を感じることが映画の本懐である。何をもってして彼は救われるのか、一体何が救いとなるのか。常に考えさせられる。

作中で出された答えは寄り添いである。
トラウトマン大佐の抱擁により戦いは終わった。
保安官を筆頭に誰もランボーに寄り添おうとはしなかった。ランボーもまた自分の身を守るため、暴れて人を寄せ付けなかった。
そんな悲劇が招いた戦いの最後はトラウトマン大佐による無言の抱擁で終わらせられる。

兵器に抱擁は不要だが人間に抱擁は有用だ。
トラウトマン大佐は最後にランボーを自身の創った兵器でなく一人の人間、戦友でありあるいは友人として抱きしめた。
ついに町は戦場でなく人の住む地へと戻る。

ランボーが英雄だった戦場では破壊と蹂躙は美徳だが人間社会では罪となる。ままならなさをまざまざと見せつけられるこの最後は本当に美しい。

そして流れ出すエンディングテーマ【It's a Long Road】の美しさよ。

この歌詞は本作の必然性を示している。
本作ではたまたま立ち寄った町で保安官に目をつけられて戦いに発展たかがそれは偶然の不幸ではない。
ランボーは例え別の町に立ち寄っていたとしても戦いに巻き込まれていたし誰が相手であってもそれは彼にとっての戦争へと派生していた。そういうことを意味している。
だから前述した通りこの戦いの発端にはドラマもなければ運命もない。ランボーは戦うべくして戦うことを余儀なくされる。

なにより、とても苦しく物悲しい歌詞なのに希望がある。これが最も素晴らしく美しい。
歩く道は長く険しい。そして常に戦いが間近に潜んでいて、その戦いで殺されるだろう。
だから歩き続けるしかない。どこかに落ち着ける場所があるのではないかと希望を持ちながら長く険しい道をいかなければならない。

本当に過酷な歌詞だ。
だが歩き続けられること、そして希望を持つことはできる。心の痛みに足も重いが歩き続けるしかない。道は長く、行き先は遠いのだから。
まだランボーは歩き続けることができる。という残酷な事実はどこかで安寧の地が見つかるかもしれないという希望と表裏一体である。
過酷さの中にも希望をある。ではなく、希望を持てば長く険しい道も歩かなければならないようになれるという生きるという戦いに対して真摯でストイックな歌詞は本作にふさわしい。

私はランボーという存在そのものを愛している。
故に全作好きである。だがやはり一番のスペシャルはやはり【First Blood】だ。

今回日本では40年ぶりのスクリーンと書いてあった。果たして次回上陸するときに生きているかどうかすら見通しの立たない年月だ。
しかし命あるタイミングでやるのであれば、また必ず見に行く。そして、またその時は来るだろうなと感じている。

希望はある。
道は、長く険しいのだから。

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