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“知る”は世界を分解しすぎる

例えば色を識別するとき、色の名前を知らない人は、これらをすべて「緑色」だと認識します。
せいぜい、緑、黄緑、鮮やかな緑、くすんだ緑、暗い緑、明るい緑、という程度の違いでしか区別することはないと思います。
決してそれも間違っているわけではないのですが、色の名前を知っていれば、それぞれの色はこんな風に識別できます。(参考:https://www.i-iro.com/dic/tag/midori-green

“知る”とは、解像度を上げて物事を認識すること、言わば、世界を分解することだと私は思います。

🍀🍀🍀

大学生活もいよいよラスト2か月。
そう、迫りくるは卒業研究の最終発表会です。

先日、同じ分野の研究をしている研究室の同期十数名が集まって、最終発表会の練習会が行われました。
「同じ分野の研究をしている」と一言で言っても、焦点を当てているところは人それぞれ。
中でも、とりわけ変わったことを研究テーマにしている私は、他の人の発表内容に関する基礎知識が少ないので、あまり理解できません。
“知らない”から、発表内容がぼんやりしてしまうのです。

一方、私は、これまでの放送部・放送研究会での経験や、プレゼンテーションの手法に関する講義で得た知識から、発表の仕方という観点においては他の同期よりもよく知っている自負があります。
それ故、発表スライドや言葉選びの改善点に、必要以上に気付いてしまうのです。
研究内容が分からない分、発表の仕方を“知っている”から、改善点がより鮮明に見えてしまうのだと思います。

スライドのレイアウトのバランスが整っていないとか、同じ表の中に異なるフォントが混ざっているとか、聞き手が区別しづらい同音異義語を使っているとか、太字にしているところが多すぎてどこが重要か分からないとか、スライドのタイトルが抽象的過ぎてほとんど意味がないとか、ここに書き出すときりがないほどに気付いてしまうのです。

発表が終わると、質疑応答に入ります。
この日は、発表の練習がメインテーマだったため、研究内容に関する質疑応答のほか、発表の仕方に関しても気になった点はコメントすることになっていました。

ただ、発表の仕方に関するコメントとなると、どうしても上から目線なアドバイスになってしまう気がして、ただの同期である私は、先生方や大学院の先輩方のように堂々とは言いにくいというのが本音でした。

発表を聞いている間は、気になった点をすべてメモしていたので、片っ端から言っていくことは可能です。
でも、私がこれらをすべて言ってしまったら、立場をわきまえていない感じがするし、余計なお世話だよな…、発表内容そのものに対する質疑応答をする時間にした方が有意義だよな…、とぐるぐる考えてしまい、結局ほとんど言えませんでした。
図のタイトルが抜けているとか、スライドの文章量が多すぎて読み切れないとか、どうしてもここは直さないと問題があると思われる点に対してのみ、多くても一人一つまでと決めて、僭越ながらコメントしました。

🍀🍀🍀

同期ではなく後輩に対しても、良いアドバイスとお節介のボーダーラインが分かりません。
相手が先生や先輩となると、思い切ってバカなフリをして何でも言えるのですが、自分が助言する立場であることが明確なときは難しいなあ、といつも思います。

私は、余計なお世話だと思われるほどの些細な指摘でも、ありがたく受け取ります。
むしろ、私が指摘をするときに若干の勇気を要するタイプなので、その勇気を乗り越えて指摘してくださったんだな、と嬉しくなるのです。
でも、他の人が必ずしも同じではないことを知っているので、自分が指摘する側になると、例えそれが良いことだと分かっていても躊躇していまいます。
自分が嫌われることを恐れているのではなく、相手に嫌な思いをさせてしまうことを避けたいのです。

発表の仕方を知っているからこそ、改善点に気付いてしまう。
気付くのは良いことだけれど、気付きすぎてしまうことに悩んでいる。
良いアドバイスをお節介にならないように伝えるにはどうしたら良いのか。
これが、最近の私の考え事です。

🍀🍀🍀

“知る”ことは人生を豊かにすることです。
たくさんのことを知っていれば、その分世界は色鮮やかに、高解像度で映ります。

“知る”は世界を分解します。
だからこそ、分解した世界を上手に使えるようになりたいものです。

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