見出し画像

近所のスーパーがなくなれば、生活ぶりは変わるから

妻子と暮らすアパート ←→ 私の実家

まぁだいたい車だと20分くらいの距離にあるんですよ

買い物はしたけどなんとなく物足りないときがあって

そんな時にたまーに寄るスーパーマーケットのバローがあったんだけど

先日、突然に潰れた


自分からしたら、「たまーに物足りない時に寄る」くらいなんだけど、

周囲の住民からしたら、そう簡単な話じゃなかろうと


特に足がなくなった歩きのみの年寄りなんてのは難しい

小さな商店なんてこのあたりじゃどんどん減って、大型のスーパーくらいしか残っていないから

あそこの団地に住む人はそもそもどこへ買い物へ行っていたんだろう

バスは通っているけどさ


潰れたスーパー

なんだかんだ人は入ってた。自転車も車も、よくとまっていた

バス停の前にあって、よく人もいた

車通りの多い片側3車線に接していて、

周囲には戸建てやアパートも多い。逆にそれしかない。

周囲に競合相手もいないように思えた。


採算が合わなかったのかな。でも地域の生活は確実に支えていた部分があったと思う。

近隣の人は生活は変わったと思う。困った困ったと言いながら、生活せねばならないからほかのところへ行っている人も多いんだろうけど

遠くなれば持ち運ぶ量も減らすことになる。

持ち運ぶ量が減れば、買い物回数を増やさねばならなくなる。

悪循環でしかない。

街であってもこの状況


車で、しかも帰り道で、ちょっと寄るかも、くらいの私には

・あぁ、アイス一番安かったのに

・ん-、野菜の値段が比べられない

なんてことくらいだわね

安いものだけ買いに行っていたから、それもいけないんだろな。

私がつぶした張本人なのかもしれない


こんなことを通るたびに思う

建物がどんどん壊されて、更地になるには、あと数日か。

そのうち、ここには何があったっけ、なんて忘れる程度になる


周囲のパチンコ屋、本屋、潰れた。

ガストは生き残っていて、24時間フィットネスがやってきた

街もすぐ変わる。生活もすぐ変わる。人はすぐ忘れる。

適応できるとはすばらしい。適応するには力がいる。

置き去りにされる人は忘れ去られる。そう簡単に変わることはできない。

自分が置き去りにされていることに気づかないことも多い。


誰にも責任はないけどさ。誰かが困ってるだろうなと思っちゃうんだよな


けどスーパーって、人の生活支えまくってんな、と思ったよね

ごめんねいつも。


でもさ。たけぇなぁ!くらい言いたいんだよね




あぁ、1回目の記事でこの脈絡のなさ。

〆の言葉なんかはない。いつも気になって誰かに言いたいけど、そう相手もいないから。書いておこうかなと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?