【旅】マケドニア滞在期 その1
マケドニア人の友人がいる。
なぜなら彼女はわたしが働く病院に
入院していた患者さんで、
わたしは彼女の担当看護師だった。
「岩本、英語しゃべれるやろ」という
副師長の鶴の一声?で担当に割り振られた。
詳細は書けないが妊娠に伴う合併症のため
早産になる可能性があり、
妊娠中からの入院だった。
彼女はいろんな話をしてくれた。
母国で教師をしていて給料も良かったが
全てを手放してアメリカへ行ったこと
日本人と結婚したいと思っていたこと
マケドニアで結婚式をしたこと
ニューヨークで旦那さんと出会ったこと
母国以外の外国に住む兄弟のこと
自分の人生を自分で選んできた女性という
当時のわたしの周りには
あまりいない存在だった。
わたしは彼女が好きだった。
彼女は患者というより、友達だった。
妊娠は病気ではないが、妊娠に伴って
体の正常な機能を保つことが
難しくなる場合がある。
彼女は、日に日に、
ちょっと心配な状況に近づいていた。
もしも彼女に何かあったらと思うと
涙が出てきた。
助産師としてできることは
何でもしてあげたかった。
ある日、緊急で帝王切開に出る方針が決まった。
その時わたしが勤務する日で、
彼女と一緒にオペ室へ行き、手術を見守った。
生まれたばかりの赤ちゃんは
早産ながらもめちゃくちゃ元気だった。
はだけた胸に抱っこさせ、サポートすると
自ら乳首を吸いにいけるような生命力に
「吸ってるね!」と一緒に喜んだ。
それからわたしは帝王切開をした彼女にとっての
「子どもの誕生に付き添ってくれた人」となり
退院後もやりとりをするようになった。
ある日、一緒にお茶をしているときに
「今度娘を連れてマケドニアに帰るんだけど、
一緒に行かない?」という話になり、
「え、行きたーい」と言ったことから
マケドニアへの旅の計画が始まった。
計画と言ってもわたしはただ
飛行機のチケットを取っただけ。
当時はまだ関西国際空港から
イスタンブールを経由する便が飛んでいた。
ちょうどトルコでイスラム過激派による
テロ事件が報道されていて、
トルコを経由することに内心どぎまぎしていた。
当時のFacebookにはこんな投稿を残している。
「バルス」と叫ぶタイミングに
構えていたかどうかはさておき、
たまたま日本語ができるトルコ人が
トルコ行きの便で隣の席に乗り合わせて仲良くなり
「トルコいいとこ、遊びにおいで」
と言われて安心して経由することができた。
マケドニアの首都スコピエに到着し
お兄さんの運転で空港に迎えに
きてくれた友人と無事に合流できた。
マケドニアに住む人の言語は
大きく分けてマケドニア語とアルバニア語。
そして70%のキリスト教徒と
30%のイスラム教徒で成り立つ。
友人の家系はマケドニアに住むアルバニア人で、
イスラム教徒だった。
歴史についていまだに詳しく知らないが、
友人がマケドニアにいた頃、
社会主義の民族争いで
空から色々降ってきていたらしい。
それを聞きながら、彼女や家族が
無事でいてくれてよかったと
彼女の実家の広い庭を眺めて心底思った。
スコピエは栄えているというほど
派手な街ではないが
一応マザーテレサの生誕の地として
記念館のようなものがあったり、
銅像のある広場や、
マリオットホテルがあった(今写真を見て気がついた)
滞在中、親戚という親戚中に紹介されて
ありとあらゆるところに連れて行ってもらった。
友人の妹はこれまた美人で、
旦那さんは国内で有名なミュージシャンだった。
ほとんどの親戚たちはアルバニア語で
話かけてきてくれたが、友人の妹が
少し英語がわかる人だった。
「本屋でスコピエのガイドブックを
探したんだけど、2ページしか載ってなくて
買うのやめた」と話すと、
めっちゃ笑ってた。
イスラム教徒は基本的に
お酒を全く飲まないものと思っていたが
一年中絶対ダメ、というわけでも
ないらしかった。
意外とゆるいんだなと思った。
とにかくありとあらゆるところに
連れて行ってくれたのだが
観光したことについては
すっかり忘れてしまった。
それよりもわたしを魅了したのは
イスラム教徒の暮らしぶりだった。
続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?