「雨」の違いを詠み分ける人になりたい。
占いについてお客様に聞かれたとき、タロットや数字を読むことは「翻訳」なんだと話すことがある。同じカードでも占い手によって結果に違いが出るのは、翻訳と解釈の違いだと言える。
あまりにも教科書通りに読むのは「This is a pen.(これはペンです)」なんて、日常ほとんど使わない言葉を話しているような間抜けさがあるけれど、かといって「(これはペンなのにわざわざ聞くなんて)バカにしてるのか」と飛躍すると翻訳を逸脱した余計な解釈になりかねない。
タロットでも他の占術でもそうだけど、占い師になるために学び、人を占うのならば、私は最初はある程度教科書に沿って読むのがいいんじゃないかなと思う派である。自分もそうしてきたし、何度でも基本に立ち返ることは大事だと思うから。
時折「直感で読んでok!意味なんて覚えなくてok!」と豪語して教えている占い講師の方もいらっしゃるんだけど、私は個人的には好きじゃない。(好みの問題だとは思う)
「直感を信じる」ってとても重要なことのように言われがちだけど、その直感の精度が果たしてどの程度のものなのかっていう疑問もあるし、あとは自分の語彙や背景の知識をあまり過信しすぎるのも好きじゃない。
中野京子さんという作家がいる。一時期流行った「怖い絵」という本の作者だ。彼女が著者の中で「絵は感性で見るもの」というのは誤りだ、という論旨のことを書かれていて、なるほどなと思ったことがある。正確な引用ではないが、概要はこうだ。
「絵は感性で見るもの」という誤った見識が、かえって人を本質から遠ざけているように、「直感を信じる」も同様で、あまりにも基礎的な知識や教養がないままで「直感」とか「自分自身が感じ取ったもの」だけを中心に据えるのは、かえって自分を狭い範囲に閉じ込めてしまう要因になるのではないか。本当は、占いはあなたが知らないことを受け取るためのツールなのに。
例えいくらメッセージが降りてきても、自分にそれを正確に理解し伝える語彙がないと変換は出来ないし、情報が歪んでしまう可能性は大いにある。だから、結局のところ占いを真に使えるものにしたかったら、あるいはメッセージをきちんと伝えようと思ったら、自分自身の語彙や知識や体験を磨いていくしかないんだと思う。
「雨」を表現する語彙が「雨」しかない人と、「五月雨」「夕立」「洗車雨」「時雨」などさまざまな違いを感じ取り、表現が出来る人の翻訳は、全く違う奥行きを生んでいるはずだから。
私も、願わくは奥行きのある人になりたい。ただ言葉だけで「大丈夫だ」という人と、さまざまなことを知り、わかった上で「大丈夫だ」というのは違うと思うから。
後者の「大丈夫だ」は、例え交わした言葉がたった一言でもその人を助ける言葉になるはずだから。それぞれの「大丈夫」という言葉の持つエナジーが全く違うことを、私は感じ取りたいし、人もきっと無意識に感じ取っているのではないか。そういう「大丈夫だ」を言える人になりたい。
つまるところ、占いの結果が「雨」だった時に、それをただ「雨ですね」というのか、それとも「夕立」なのか「雷雨」なのか、あるいは「通り雨」なのか。そういう微細な違いを読み分ける時にこそ、直感は使われるべきものなんじゃないか。それなのに、「雨」というメッセージを受け取れたことで「自分の直感すごい!」と言ってしまうのは、ちょっと情報が粗いんじゃないかなと思うわけだ。
雨が分かるのはある意味当たり前のことなので、それ以上のこと、雨の違いや何が必要なのかを読み分けてこそ、直感は使える情報になり得るのではないだろうか。だって「雨」だけでは、その雨が人々にとってどのように機能するものなのか、分からないじゃないか。
その雨が、人にとって恵みの雨なのか、それとも近くの川が氾濫を起こす可能性があるのか、そういうことを事前に知るための《占》なのだから。そんな風に、雨の違いを読み分けられる人になりたい。
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