可哀想、頑張ってるに違和感
わたしは生まれつき左手の指が一部ないのだけど、
そのことについて
自分のことを可哀想だとか、
頑張ってる!なんて思ったことはない。
小さい頃、
「指がなくて可哀想なのによく頑張ってるね」とか
「指がないのにできることたくさんだしいい子よね」と
うっ〜すら記憶の中で言われていたような気がする。
指がなくてもできることはたくさんあるし、
ないことが当の本人にとっては
なんのマイナスにもなってなかったので
その言葉たちは違和感でしかなかった。
大人になってからは
あえていうことがないので
指がないことに気づかず
過ぎ去っていったひとたちもたくさんいる。
本当に指のことに関しては
いろんな視点で関わってくれるひとがいて
たくさん救われた経験もあるし、
逆に傷ついた?というか怒った?経験もある。
例えば
ホテルの宴会場のホールや日本料理屋のホールのバイトを学生時代していて、
一応面接の時に「指がなくて一度にたくさん持つとバランスがとりずらく、お皿を壊してしまう可能性があるので、運ぶのが少しずつになるかもしれませんが大丈夫でしょうか?」と伝えるようにしていた。
でもどちらのマネージャーさんも
「そんなの全然問題ないよ、自分のできるペースでやっていいから」と言ってくださり、全く気にしないそぶりで対応してくれて嬉しかった記憶がある。
逆に憤った経験としては
なかなか仕事がうまく行かず、
とんでもなくダメダメで上司もあきれかえっていた時があった(このとき振り返ればかなりADHDっぷり発揮してたと思う)
上司に叱咤激励を受けていた際に、
言われた「指がなくても頑張ってやってきたあなただからできるはずよ!」というなぞの激励。
指がないから踏ん張って頑張って生きてきたってことはこれまでなくて、
自分が自分として成長したい、よくなりたい!って思って努力してきただけ。
それを「指がないから」と言われると
なんか違う!って
「わたし」ではなく「障害」にフォーカスされた気がして、これまでの頑張りを否定された気持ちになった。
人によって
障がいへの捉え方は本当に多様で
どれが正解も無いと思う。
それぞれが感じることだから。
けど、
障害をもつひとに
可哀想、とか、頑張ってるね、っていうのは
余計なお世話な気もしている。
いろんな障害をもつひとがいる
一言でこうだ、なんて絶対まとめちゃいけないけど、「障害」じゃなくて「わたし」にフォーカスできる社会だといいなとおもう。
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