唄うとゆう事
10数年前、歌を唄ってるとき。
高音域を出したその時に、パニック障がいが発病した。
唄う事が大好きで、何をしても続かない自分が唯一続けてこれたのは「唄う事」だったかもと振り返ればそう思う。
病について語るつもりは今はないけれど。
とにかく当たり前に出来てたことが奪われた。
もちろん歌を唄う事も怖くなった。
それでもなんとか取り戻した。
弾けもしないアコギを買い、弾き語りでリハビリ。
声を張る事が困難になり、それでも唄は取り戻したい、そんな一心だったのを覚えてる。
ある時、ライブ配信をしてみた。
不特定多数の人に聴いてもらうとゆう、荒療治だ。
ライブ配信しながら、少しずつ取り戻そう。
それから毎日毎日、歌を唄った。
怖くなる日もあった、涙を流しながら唄う事も少なくなかった、悔しくて悔しくて。
それでも続けた。
そこにいてくれた、画面の向こう側の人たちは、それでも聴いててくれた。
時には、一緒に涙を流してたくれたり。
わかった事がひとつだけありました。
声は、唄声で、抱きしめることができる。
文字で、抱きしめてもらうことができる。
当たり前に唄えること、それは当たり前なんかではなくて。
とゆうか、当たり前、など存在しない。
僕は病を経てたくさんの事を気づかせてもらった。
本当にたくさんの学びがあった。
きっとおそらく、自分にとって必要な事だった。
足りてないモノを見つける為に。
今も無理をすれば体調崩したりします。
けど、取り戻せたモノもたくさんある。
もちろん、唄もそう。
悔しくて涙を流す日だって、普通にある。
もっと前へ、もっと前へ、って。
「焦らず行こうよ、大丈夫。」
もう1人の自分が言う。
歌うスキル、なんてものはわかりません。
上手い、下手、もどうでもいい。
それでも、言葉だけは大切に。
気持ちだけは大切に。
想いだけは大切に。
僕にとって唄うことは、そうゆうもの。
ひとつひとつに身を削り、ひとつひとつ大切に。
今でも高音域が怖くなる時がある。
それでも、好きだから唄う。
だから続けてる。
当たり前など、存在しないってわかってるから。