髪を伸ばしている。美容室を恨み、布を被っていたかつての私の夢のために。
一年ほど髪を切っていない。
いや、二年かもしれない。驚くことに三年かも。最後に行った美容室のスタンプカードには夏の日付が書かれているけれど、西暦が書いていないので何年の夏なのか不明だ。
私はグリングリンの天然パーマとしてこの世に生まれた。
母と父が若干のくせっ毛で、その遺伝子が複雑に絡まり合い、強烈な天然パーマとなって私ができた。
ロングヘアでいること、それはイコール厄介なクセモノが存在感を増すこと。そのためずっと、ずーっと、私はショートカットの女として生きてきた。
運動部だった頃はちょっとやそっとのショートではなく、所謂ベリーショートの域に達していたと思う。強豪校でもないのに。ひとり強豪校状態。市の大会などでは随分と恥をかいてきた。
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そんな私の髪にまつわる最も古い記憶は、未就学児時代まで遡る。古い平屋建てに住んでいた頃だ。
玄関を開けるとすぐ左手に子ども部屋があり、そこには沢山のおもちゃがあった。私と弟のおもちゃだ。
私は母に貰った赤い箱に選抜のおもちゃを詰めていた。その選抜の中でも、恐らく君が永遠のセンター。そう当時の私が思っていたもの、それが「薄ピンクの布」だった。
布なので、もはやおもちゃと呼んでいいのかもわからないが、間違いなく私の一番のお気に入りであり、そして心の拠り所でもあった。祖母に貰ったものだと記憶しているけれど、貰ったときの詳細は忘れた。
広げると、子ども用のレジャーシートほどの大きさになる布だった。
私はそれを、頭に巻いて使っていた。
巻き方はこう。
端と端を固結びにし、頭がきっちりとはまる大きさの輪を作る。結び目が首との境目にくるようにして頭をはめる。そして、だらんと垂れ下がった布を背中の方へと流し、コームを使って布から前髪を適量出せば完成。お尻の辺りまで布がきて、ロングヘアの気分を味わえる。
私は幼稚園から帰ると一目散に子ども部屋へと飛び込み、布を頭に巻いてその日の残り時間を過ごしていた。
友達が遊びに来てももちろんそのスタイルをキープ。最初の頃こそギョッとされたが、皆すぐに慣れ、自然なことのように受け入れてくれた。
外へ遊びに行くときもその姿でいるつもりでいたけれど、それは母に阻止された。
理由は言われなかったけれど、
「やめときなさい」
静かながらも力のこもった声で言われて母の本気を感じ、断念した。
当時の私が、家に友達を招いて遊ぶのが最も好きだった理由はこのためだ。外遊びでは着用できないし、友達の家に行くと、友達のお母さんの目がある。友達のお母さんだって慣れれば受け入れてくれるかもしれないが、なぜだろう、子どもながらに、それはなかなか難しいのではないかと思っていた。同い年の友達にわかってもらえても、大人にはわかってもらえないだろう、と。
そうやって頭に布を巻き巻き、疑似ロングヘアを味わっていた私だから、もちろん美容室が大嫌いだった。だって、あそこは髪をちょん切る場所だから。
私は髪を伸ばしたかったのだ。
アニメに出てくる可愛い女の子のように、髪をお尻まで伸ばし、三つ編みにしたりポニーテールにしたりしたかった。俯いたときに髪が顔にかかる感覚を知りたかったし、「風に髪がなびく」ということが噂や七不思議の類ではないのだと身をもって実感したかった。
だから、髪を切ることはその願望に最も反する行為である。切りさえしなければ伸びるのだから。
美容室へ行くことを拒否すると、周りの大人たちは決まって私を脅した。「あんたは天然パーマだから、切らなきゃエラいことになるよ」と。
だけどそんなの、伸ばしてみなきゃわからないじゃないかと思っていた。生まれてこのかた、髪が肩に付いたことすらないのだから、エラいことになるなんて誰が証明できるんだと、小さい私は大変に憤慨していた。
母の「○○さん行こうか」(○○には母行きつけの美容室の名が入る)というセリフは私が最も嫌いな言葉だったし、その店の名を口にすることを禁止して欲しいと思っていたくらいだ。
だけど前述したように、私が拒否すると、母をはじめとする家族の大人チームが私を脅した。身内からの脅しに私が慣れてくると、母は友達のお母さん勢までをも使い始めた。
幼稚園のお迎え時、集まったお母さんたちに私が美容室に行かないことを言いふらし、脅しに加勢させたのだ。
「なんで嫌なの~」
「せっかくカッコよくしてもらえるのに」
「頭がこーんなになっちゃうよ」
「ショートカットがいっつもカッコいいなあって、おばちゃんたち思ってるんだよ~?」
やはり他人、脅しと言うには耳に優しい言葉が並んだ。だけどその言葉たちが意味するところは結局「美容院に行け」「髪を短く切ってこい」である。私の味方をしてくれる大人はいなかった。
お母さんたちが必ず「カッコいい」という言葉を使ったことにも憤慨していた。誰も「可愛い」とは言わなかった。私は可愛くなりたかったし、だから髪を伸ばしたかった。
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母行きつけの美容室に行かなくなったのは、小学校高学年になった頃だ。
高学年になった私が出した答えは、
「美容室を変えれば解決するかもしれない」
だった。
小さい頃からの私を知らず、母の言いなりにならない美容師に切ってもらえば、私の希望するロングヘアにしてもらえるかも、と思ったのだ。
美容室でショートをロングにしてもらうというのはおかしな話だが、髪に対して普通の子どもよりも長く考える時間を持ってきた私は、知識が少し大人びていた。
「きれいに長く伸ばすために、適宜整えて貰う。そのために美容室に行く」
こういうことである。
しかし、美容室選びは困難を極めた。
小学生の子どもが一人で入るには、おしゃれすぎる美容室は避けたい。だからと言って、おしゃれ要素がゼロな店でも悲しくなってしまう。
気軽さで言えばオッサンか野球部しかしかいない理容室も一瞬頭を過ったが、「理容室=完璧なまでの角刈り」という凝り固まったイメージを持っていた私は、ベリーショート極まれり角刈りになった己を想像して震えた。
料金も高すぎてはいけない。美容師が一人で経営している店も、他の客の会話が聞こえてこない一対一の空間となるため精神的に非常に厳しい。
おしゃれすぎず、高すぎず、美容師は複数所属。そして小学生最大のしがらみ、「学区内」。
休日の度、美容室選びのために自転車で走り回った。
私はどうしてこんなに苦労しているのだろう。当たり前のように三つ編みをしたり、髪を結わず風になびかせ自転車で走る女児らとすれ違う度、泣きそうになった。
美容室を探していることを、あれらサラサラヘアーに悟られてはいけない。私は軽く鼻歌なんかを歌ったり、さも友達との待ち合わせ場所に向かうような顔を作ったりし、ペダルを漕いだ。
そうして一軒の候補と出会った。
自宅からは自転車で八分ほど。それは、地元スーパーと同じ敷地内にあるテナントビル(二階建て)の中にあった。
一階には園芸店と何かの事務所、二階にはスイミングスクール、そして美容室。
二階にある、という点が若干難易度を上げてきているが、全面ガラス張りとなっていて、下の駐車場から見上げれば店内の様子はよく見えた。
ピンク色のタオルが大量に干されているのが見え、それがおしゃれ度を適度に引き下げていて好感が持てる。それに、美容室の奥がスイミングスクールとなっている点がいい。子どもが一人で入って行きやすい。現に、駐輪場スペースには子ども用自転車が沢山駐まっていた。
ここに決めた。
私はガラスの向こうに動く美容師たちを見上げ、決意した。
後日、このようなグリグリヘアー野郎が行きますが、すいません、よろしくお願いします。そう、美容師たちに心で語りかけた。
*******
迎えた翌週の土曜。
私は母から貰った三千円をポシェットに入れ、自転車に乗った。子どもは二千円で切ってもらえるはずだと母は言ったが、割と身長が高めな子どもだったので、もしかしたら中学生料金をとられるかもしれないと不安を口にしたら三千円くれた。
「髪を長くするために行く」という決意など知らない母は、
「うんと短くしてもらうんだよ」
などとほざいていた。それには答えず、大きく手を振ってから、足に決意を絡ませペダルを強く漕いだ。
青いタイルが敷き詰められた階段を上り、吐き気を催しつつ店のガラス戸を開ける。
広い空間だった。L字型に施術用の椅子が並び、病院で言うところの待合室的な場所にはざっくばらんにソファや脚の長い椅子が、マガジンラックには女性誌がたくさん置かれていた。
母親くらいの年齢の女性美容師が、優しい笑顔で近づいてきた。
よかった、この人ならあまり緊張しないで済むかも。そう思っていたけれど、「鞄を預かります」の意味で両手をこちらに差し出したその美容師のジェスチャーの意味がわからず、さらに緊張から来る「不用意に動いてはみっともないのではないか」という癖を発動していた私は、肩から提げたポシェットを絶対に渡すまいとしている雰囲気を醸してしまい、そのままシャンプーの流れとなった。
顔に薄布をかけられる瞬間、
「あれは荷物預かりますの意味か!」
と理解したが時すでに遅し、腹の辺りに荷物の存在を感じたままシャンプーとカットをされるという、苦い「ひとり美容室デビュー」となった。
一つくらい失敗は絶対にあるだろう。そんな心持ちでいたのであまり気にしないことにしつつ、シャンプー後のオールバックオンザタオルの状態のまま、上下する椅子に座った。
だけど失敗は一つではなかった。
「今日はどうしますか?」
そう訊かれて、なんと私は何も答えられなかったのである。
致命的である。
何度も練習したはずの、
「髪を伸ばしたいので、キレイに伸びるように、今日は毛先を整えるだけでいいです」
が、全くもって口から出てこなかった。
いや、頭にはちゃんあった。言え、言え!脳みそがそう命令しているのに、そのセリフの知ったか感、子どものくせにコイツ偉そうなこと言いやがって感が、美容室のあの上下する椅子に座った途端、猛烈な大きさでもって私にタックルしてきたのである。
すんごく生意気なセリフなんじゃないだろうか。
そう思うと半笑いのまま固まってしまい、私以上に困ったであろう美容師はヘアカタログを持ち出した。
ロングやミディアムのページをすっ飛ばし、一番最後に載っているショートのページを美容師は開いた。
「くせ毛気味だから、くせを活かしたこういうのなんてどうだろう?」
美容師が指さすヘアスタイルはどれも、ピンピンと毛先を遊ばせた感じの、昭和生まれの私には最先端過ぎる、
「そんなんで学校行ったら笑いものですやん」
な髪型ばかりだった。
そして思った。やっぱり言えない、と。こんなグリグリ天然パーマの分際で、「整えるだけで」なんてどの口が言うのか。「いや整えるもクソもないで」と美容師に心の中で笑われるのがオチだ。
美容師が言うとおり、目の前にある最先端ベリーショートヘアーの中から選ぶしかない。
ショートならショートで、鈴木蘭々みたいなサラサラショートがいいけれど、鈴木蘭々みたいな顔面お人形さん人間と同じ髪型にして欲しいとも絶対言えないし、髪質が違いすぎて美容師を困らせてしまうだろう。
だから私は、ページの中でも最も長めのショートを選び、指さした。
「これだとあんまり長さが変わらないけど、大丈夫?」
そんなことを訊かれて、私は弱々しく「はい」と答えた。
タオルが外され、オールバックの小学生が現れる。この世で人に見られたくない姿ナンバーワンだ。
「少し待っててね」
美容師が席を離れた。どうやら店の中でも偉い美容師らしく、若い美容師に指示を出しに行ったようである。
オールバック小学生がぽつんと残された。希望を言えなかった敗北感も伴い、惨めだった。早く帰りたかった。
すると、店の外から賑やかな声が聞こえてきた。
ガラス張りの外を見ると、スイミングスクールへと向かう子どもの一団が店の前を通りがかるところだった。
知っている顔はいなかった。学年が違うか、別の学校の子どもばかりなのだろう。
なぜそれがわかったか。
私の座る上下する椅子の位置がちょうど、子どもらの通る通路に面していたからだ。
この世で人に見られたくない姿ナンバーワンで椅子に置かれている私を、スイミングスクールに向かう面々の全員、漏れなく全員が、驚いた顔で凝視しながら通過していった。
悲しかった。
悲しくて、どんな髪型にされたかは覚えていない。いつも通りの仕上がりだったんだと思う。
*******
あれから二十年が経った。
伸ばしているとは言え、あまりにも髪を切っていない事実に背徳感を覚えた私は、毛先だけ整えてもらうことにした。
思い立ったのは週末の真っ昼間だった。外はよく晴れていて、大人になっても変わらない美容室嫌いを奮い立たせるにはもってこいの陽気だった。
だけど予約もしていない。予約なしに、週末の真っ昼間に行って切ってくれる美容室は少し信用できない。人気がなさそうで。
それに、毛先を数センチだけ切ってもらうだけならばおしゃれすぎる所も避けたい。なんてったって化粧をあまりしたくないから。できるだけ軽い化粧で、身軽な服装で出かけたい。なんの予定もない、帰って来て飯食って風呂入って寝るだけだ。
そしてあまり高いお金も払いたくない。数センチ切るだけなら千円カットでいい気もするけれど、千円カットの店には行ったことがないから勇気が出ない。もう少し年齢を重ねるか、結婚でもしなければ行ってはいけないような気がしている、なんでかわかんないけど。
一軒思い当たった。
あの美容室だ。二十年前、初めて一人で行った美容室。
あそこは予約がいらないし、家からも近く気張らなくていい。
自転車にまたがり、件のテナントビルを目指した。
一階にあった園芸店はパスタ屋になり、スイミングスクールは別棟に移動してもうない。
だけどあの美容室は、二十年前から時が止まったかのようにそこにある。
青いタイルの階段をよいしょと上り、ガラス戸を開けた。
広いと記憶していた店内は狭く、画用紙などで作られた飾りが壁に貼られ、どこか幼稚園のような、おしゃれの「お」の字もない庶民的な雰囲気だった。
七十代くらいの女性客二名がパーマ中で、施術の椅子に座ったばかりと思しきさらに年配の女性が、美容師から「前回と同じ人に切ってもらう?」と訊かれて「誰でもいい」と答えていた。
突っ立っている私に、店長っぽい雰囲気を纏った美容師が「カットですか?」と訊く。
「はい、毛先をちょっと整えてもらうだけでいいんですが」
シャンプー台へと案内され、洗髪され、上下する椅子に座る。
長い髪を洗うのと乾かすのに三十分近くかかったが、カットは五分で終わった。
本当に、毛先をちょちょいと切っただけで終わった。
希望通りである。
これでいいのだ。
今は肩甲骨を隠すくらいの長さだけど、目標は腰辺りまで伸ばすことなんんだから。
あの薄ピンクの布くらいまで、自分の髪を伸ばすのだ。いつかの、自分の髪を何よりも嫌い、疎ましく思っていた悲しき女児の夢を叶えるために。
私はもう大人になった。
ストレートパーマに縮毛矯正、高いドライヤーにヘアアイロン。あの頃の私が知らなかったものを知っている。
そうしてそれらを経て、今は自分の髪と上手く付き合っている。
だから伸ばせる。伸ばす。
満足した気持ちで会計へと向かった。
「4,104円です」
スタンプカードを作りながら、美容師が言った。
マジ?と思った。
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