"Mosaic"Episode9"grats! ~congratulations!"
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(ブルックリン区イーストニューヨーク。東ブルックリン工業団地にある廃工場。PM5:40)
『ちょっと!ハヤトったら、曲も確認せずに飛び出していったじゃない!』
呆れ顔のエマを見て、昴が思わずくすり、と笑う。
『笑い事じゃないって。曲も判らないのに踊れるわけ――』
『大丈夫。まあ見てなって』
スピーカーから流れてくるスクラッチ音にぴたりと合わせてステップを踏む隼人を見つめながら、昴がぽつりと漏らす。
『隼人って一瞬の判断力は超人並みだから。更にあいつには――』
隼人のステップに違和感を感じたエマが眉を寄せるのを見て、昴は一旦口を閉じ、苦笑いする。
『あれはブレイキンじゃなくて、ヒップホップのステップだね』
『ヒップホップ?……あ、そうか』
言われて納得するエマの視線の先で、隼人はいたって自然な動作で後ろに跳び上がると、捻りを加えながらくるり、と一回転する。
『リズムの違うステップから、コークスクリューか』
『ってなんで予備動作無しで跳べんのよあの人!』
二人の呟きを、しかしアウェーであるはずの観衆からのどよめきが掻き消していく。その反応に不敵な笑みを浮かべながら身体を沈み込ませると、隼人は鼻歌でも歌うような調子でウィンドミルへと移行する。
流れるようにAトラックスとウィンドミルを繰り返す隼人のムーブにふたたび観衆が湧くなか、隼人の振り回されていた脚が次第に真上へと上がっていく。
『――あれだよ』
『え?あれ、って?』
昴の呟きに、ダンスに見とれていたエマが、眼を隼人から離すことなく顔だけちらりと昴に向ける。
『隼人の隼人たる所以さ』
『ハヤトの?』
その遠心力で回っているはずの隼人の身体が脚を上げた逆立ちの状態で、摩擦や空気抵抗など存在せぬかのように止まることなくスピンし続けることに、対面で彼を睨みつけるダッドウェイの眉が寄る。
『あいつには、翼があるんだよ』
『翼?それって――』
昴の言葉の意味を問いただそうと、エマが昴へ目を向けた、その時。
隼人はDJのスクラッチの終わるタイミングに合わせるようにナインティの状態からひょいと手を大地から放すと、両手を真横に伸ばしたままで、
ふわり
と宙を舞ったのだ。
『――え?またコークスクリュー……って、ええっ?!』
思わず漏れたエマの叫び声が、一瞬の静けさに包まれたステージに響く。
逆立ち状態からの、滞空時間の長いコークスクリュー。
しかも、普通ならば畳み込む両腕を、わざと大きく拡げている。
――そう。
まるで、隼《ハヤブサ》が空を旋回するように。
『あれが隼人の″翼″さ』
ポソリ、と呟く昴の声が、敵であるはずの観衆から発せられた歓声に掻き消される。
『え?どうしたの?』
あまりの大歓声に首を竦めながら問うエマに、しかし昴はまっすぐ隼人を見つめたまま振り向こうとしない。
『天性のリズム感とバネ、それに積み重ねたトレーニングによって鍛えられた身体能力が加わる事で、あの滞空時間が――』
そこまで譫言のように呟いていた昴が、不意に隼人とは違う場所に目を向けたままぴたり、と止まる。
エマが訝しげに彼の視線を追い――。
――そして、目を大きく見開いた。
先程ダッドウェイが立っていた台の奥に、一人のアジア系らしい男性の姿があった。そしてその手に構えられていたのは、ぎらりと黒光りする銃。
その銃口は、まっすぐに隼人に向けられていたのだ。
それからの数秒間は、その場に居た全員にとって数分にも感じられる時間となった。
『ハヤト!』と叫ぶエマの声。
腕を組んでニヤリ、と笑うフレッド。
今まさにマットに飛び込もうとしていたダッドウェイも、すっかりアツくなって喚き立てていたゲスパーも、そしてマットを取り囲んでいたBBBの面々も、誰もが一瞬エマを見つめ、そして隼人に目を向ける。
両足で綺麗に着地を決めていた隼人は、エマの叫びに思わず立ち止まり、ゆっくりとその男性に目を向け――
――そして、廃工場にパン!という乾いた銃声が響き渡った。
(ブルックリン区イーストニューヨーク。東ブルックリン工業団地にある廃工場。PM5:45)
銃とは、人が人の為に作り上げた、最も容赦のない力である。
人が作り出した金属から人が作り出した火薬によって繰り出される人の指先程度の大きさしかない鉄の塊が、時には食糧を人にもたらし、時には世界情勢を大きく変貌させ、時には大切な家族を守り、時には大切な家族の命を奪う。
その有用性もその恐ろしさも本心から理解できているのは、恐らく紛争地域の人々か、あるいは――
――あるいは、このアメリカという自由の国に住む人々であろう。
一発の乾いた銃声が廃工場に響き渡ったその瞬間、その場に居たほとんどの人間は一斉に身を屈ませ、銃を持つ者はそれを構え、持たぬ者は巻き添えを食らわないよう細心の注意を払いながら、辺りを――銃声の発砲元を探し始めていた。
『なんだ?!誰が打った!』
他の者と同じように銃を構えながら屈み込むダッドウェイが叫ぶ。
『わかりません!うちの連中は何も!』
DJの隣に居た男の返答にわかった、と応えながら、ダッドウェイは辺りを見回す。身内に負傷者が居ないことに幾分安心したせいか、彼の目はようやく、今の状況が見えるようになってきていた。
屈み込み銃を構えながらも戦々恐々としているBBBの仲間たち。
一呼吸遅れて倒れ込む隼人に飛びつくエマ。
呆然とした様子で何かを見つめている昴。
『――ん?』
昴の視線がただ一点から動かない事に違和感を覚えたダッドウェイが振り向くと、先程まで彼が立っていた台の奥で、一人のアジア系の男性が、大量の血を流して倒れているのが目に留まる。
それは、先ほど隼人を狙っていたはずの、あの男性であった。
『ありゃあ――お前のアシスタントじゃねえか、フレッ――』
彼は隣に居るフレッドに目を向け――そして、目を見開いた。
フレッドは、立っていた。
昴のように我を失っている訳ではないのは、彼の表情を見れば判る。
彼は、鬼のような形相をしていた。
まるで、悪戯を邪魔された子供のように。
『――フレッド、てめえ』
ダッドウェイは彼の様子に何かを察したのか、勢い良く立ち上がると彼につかみ掛かる。
『ここは俺のアジトだ、なに勝手な事してやがる!』
『うるせえ!』
フレッドは一喝してダッドウェイの腕を振り払うと、足元に置いていたバッグから銃を取り出して構えた。
『奴が邪魔くせえんだよ!
俺は――俺らは優れた人間なんだ!俺らより優れた奴なんて――』
フレッドの構えた銃が、まっすぐに――隼人と、彼をかばうエマに向けられる。
『――勝たなきゃいけねえんだ、』
ダッドウェイの待て、という言葉を無視して、フレッドの指が引き金を絞り込む。
『――卑怯で高慢な日本人には、どんな手を使っても勝たなきゃならねえんだよ!』
彼が上げた甲高い叫び声に誰もが隼人の最期を覚悟した、その時だった。
ふたたび乾いた発砲音が響き、フレッドの構えていた銃が弾かれたように彼の手を放れたのだ。
『そうかい、あんたはそう言え、って言われたんだな』
突然聞こえてきたしわがれ声に、隼人と昴以外の全員がびくり、と身体を震わせる。
『……お、オヤジ?』
辺りをキョロキョロと見回すダッドウェイの狼狽した声に、しわがれ声が心底楽しそうにぐはは、と笑う。
『まったく。お前はいつもそうだ。口車に簡単に乗りおって』
しわがれ声の半ば呆れたような調子に、ダッドウェイの顔が真っ赤に染まる。
『おい、オヤジ!居るんならでてこいや!』
ダッドウェイの腹立ちまぎれの怒鳴り声に、やれやれ、という返答が聞こえてきたかと思うと、工場の正面側にある打ち捨てられた機械の陰から、一人の初老の男性とジロー、そして銃を構えた数十人の屈強な男達が現れた。
純白のスリーピースのスーツがその年齢を重ねた黒い肌に良く似合うその男性は、『すまんな、ダッド。調べものをしてたら遅くなっちまった』と笑いながら、その頭に被っていた同じく純白の帽子をゆっくりと取る。その帽子に隠されていた額には、十字架のような傷痕がぼんやりと浮かび上がっていた。
『殺戮の十字架』としてニューヨークで恐れられている男。
ブラウンズビルの総てを力で掌握する傍ら、身寄りのない子供達を集めて養っている男。
ジャスティン・グロウ。
グロウファミリーのドン、その人であった。
『う、うるせえ!俺は、俺は――』
グロウの登場に狼狽しつつも言い返そうとするダッドウェイをグロウは片手を上げて制する。
『お前は何も言うな。――おい、あのコリアンを』
グロウの声に、傍に従っていた屈強な男達の何人かが素早く動き、あっという間にフレッドを拘束する。
『な、なにしやがる!』
必死に抵抗するフレッドだが、体格差のある黒人を相手にしては身動きすらままならない。
『やめときな。あんたにはまだまだ聞きたい事があるんだ、ここであの――』
とグロウが台の奥に顎をしゃくり、
『――男みたいにはしたくねえからよ』
そう言ってニヤリと笑ったグロウが、その笑顔のまま連れてけ、と男達に告げると、男達はもがくフレッドの両脇を軽々と抱え上げ、あっという間に連れ去ってしまった。
『――さて』
フレッドがその場から退場したのを確認したグロウが、今度は優しく微笑みながら、今だ隼人に覆いかぶさるエマに目を向ける。
『エマ、大丈夫かい?』
『――来るとは思いませんでした、グランパ』
安心して力が抜けたのか、エマはなんとか顔だけグロウに向けると、そう答えて力無く笑う。
『何を言うか。俺の大切なファミリーの危機だぞ、来ないわけがないわ』
彼はそう言ってはっはと笑うと、すい、と二人に近づき、屈み込んで、片手をそっとエマの肩に添えた。
『見事なダンスだったよ。あの極限状態であれだけのダンスができりゃあ、間違いない、売れるぞ』
『グランパ……』
グロウの優しい声に、エマの顔が泣きそうな顔でくしゃり、と歪む。
グロウはそんなエマに無言で頷くと、肩から手を放してすっと立ち上がり、今度は昴の前に立つ。
『君がスバルくんだね。エマの血縁だそうだが』
グロウの静かな問いに、昴はただ黙って頷く。
『そうか――すまなかったね、こんな事に巻き込んじまって』
そう言って頭を下げるグロウに、昴は慌てて『いえ、そんな』と返す。
『僕が自ら望んだことですから。それに――』
と、昴はそこで、見上げたままのエマに目を向ける。
『それに、これでようやく、自分の中に凝り固まっていたしこりが取れた気がします』
昴の呟くような返答に、しかしグロウは微笑みながらそうかい、とだけ答えると、ふたたびダッドウェイへと振り向いた。
『道を見つけた男は強い。信念を曲げない男は強い。
――俺はそう教えてきたよな、マイサン、ダッドよ』
グロウの問い掛けに、ダッドウェイは眉を潜めながらもそうだ、と頷く。
『お前の信念はなんだ?あんなどこの馬の骨とも判らんコリアンが唆したような、この街の支配者か?』
『違う!俺は――』
グロウの重ねた問い掛けを遮るようにダッドウェイが叫ぶが、その声は次第に小さくなっていく。
『違うよな?お前はずっと、お前について来た仲間とともに成功することを信念としてきたはずだからな』
静かな、しかし断固とした口調に、ダッドウェイだけではなく、他のBBBのメンバーもうなだれる。
『それがどうした、あんなくだらない男の甘言に乗せられて、逆に仲間を傷つけようとするとは』
『いや、それは――』
『違う、というのか』
言い返そうとしたダッドウェイを、グロウがぴしゃり、と遮る。
『お前も知っているだろう?俺がこの街をまとめあげるまでに、どれだけの仲間を失ったか』
グロウの言葉に、ダッドウェイが堪え切れずに下を向く。
『解ってる。解ってるけど』
『ならもう止めろ。このままだと、最後に笑うのはあの連中だけだ』
グロウが吐き捨てるように言うと、ダッドウェイが眉を潜めて『あの連中?』と問いかける。
『オヤジ、勘違いしてないか?コリアンの連中はこの街には――』
『コリアンマフィアじゃねえ。あいつらは使いっ走りに過ぎねえ』
ダッドウェイを遮るようにグロウが口を開く。その顔は厳しく、そして険しかった。
『よく考えろ。ここでお前と俺が争って血みどろの抗争が起きたとすれば、どうなる?』
グロウの問いに、ダッドウェイはしばし考えた後、『そりゃ、警察が大騒ぎするよな』と応える。
『そうだ。そして、俺らは一斉にしょっぴかれる。その結果――』
『――ブルックリン・ベルト構想か』
二人の会話に割り込んできたのは、ようやく立ち上がった隼人だった。彼は力の抜けたエマを抱くように支えている。
『君は、――そうか、ホームで見たな』
グロウがそう言ってにこやかな笑みを浮かべると、隼人はええ、と静かに頷く。
『挨拶はまだでしたかね。初めまして、ハヤト・ホンダと言います』
『こちらこそ、エマが随分と迷惑をかけているようで、申し訳ない』
『ああもう、なんでブルックリンの再開発計画が俺らに関係してんだよ!』
二人のやり取りに業を煮やしたダッドウェイが怒鳴ると、仕方ないな、とばかりに肩をすくめたグロウが彼に向きあう。
『この街の再開発は、要するにこの街を『健全化』することにその目的がある。それは解るな?』
まるで子供に教えるように確認するグロウに、ダッドウェイが『それくらい解るさ』と鼻白む。
『よし。ならばその『健全化』を進める上で、俺らはどんな存在だ?』
グロウは一旦ダッドウェイから目を離し、彼の隣で呆気にとられているゲスパーに問う。
『は、はい!そりゃもう、邪魔者でしか無いっす』
やや緊張気味のゲスパーの答えに、ダッドウェイがなにか気づいたようにはっとした様子でグロウを見た。
『邪魔な存在は、排除すれば良い。まず殺し合いをさせて人を減らし、それから一気にムショに放りこみゃ、奴らは何の労力も使う必要はない』
『おまけに悪党を一斉に排除できるんだ。人気も一気にアップして、一石二鳥だ』
グロウに続けた隼人の言葉に、BBBの他のメンバーの何人かが悔しさのあまりかそれぞれの近くにある物に当たり散らし、ダッドウェイもまたギリリ、と歯を食いしばる。
『くそ――くそっ!』
『許せねえ!あの連中、ぶっ殺してやる』
あちこちから聞こえてくる呪詛の声に、やれやれ、とばかりにグロウがため息をついてみせた。
『ダッド、そしてBBBの息子たちよ。それはお前らの仕事じゃねえぞ』
忘れたのか、と静かに問いかけるグロウに、BBBの面々はぐうっ、と息を堪える。
『言ってるだろう?お前らはダンスで戦えってよ』
彼の言葉にあちこちから発せられた不満の声を、しかしグロウは片手を上げて制すると、
『――忘れるな。血なまぐさい話は、俺らの仕事だ』
と、ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべた。
(ブルックリン区イーストニューヨーク。東ブルックリン工業団地にある廃工場。PM6:00)
『さて、そろそろ失礼するとしようか』
グロウファミリーの男達がBBBの面々から取り上げた銃をまとめたのを確認すると、グロウはふう、とため息を一つついてそう呟いた。
『いや、今夜は楽しかった。ダッドのダンスも、エマのダンスも見れたし、おまけに最近人気急上昇中の”ホーク”のダンスまで見れて――』
『おまけに、親子喧嘩も回避できましたしね』
グロウの隣に立つジローがおどけるように言うと、その場に居た隼人やエマ、グロウから笑みがこぼれた。
『全くだ、これで安心して眠れるよ』
『俺達も、これで安心してホームに帰れます』
隼人がそう言って頭を下げると、当然の行為だよとグロウが笑い、そしてふと思い出したようにエマに目を向けた。
『――エマ。このタイミングで切り出す話ではない、と思うが』
『はい、何ですか?グランパ』
グロウの問いかけにきょとん、とした表情を見せるエマ。
『あのホームについて、これからの管理を君に任せたいんだが、良いかね?』
まるで庭掃除を頼むようにあっさりと告げるグロウに、エマはただ目を丸くして見つめるしか出来ない。
『いや、先程話してた『再開発』のことを考えるとな、やはり俺の名前は表に出さないほうが良いだろう、と思ってな』
『グランパ……』
その寂しげな口調に、エマが悲しげな声を漏らす。
『今すぐという訳じゃないし、資金的な援助はこれからも続けていくつもりなんだがね、後を頼んでも良いかな?』
グロウはエマの頭に片手をそっと置きながら、どうだい?と優しく問いかける。
『――考え、させて下さい』
なんとか搾り出すように答えたエマに、グロウは優しい口調で解った、と応える。
『結論が出たら教えて欲しい。――ま、焦ることはない。時間はたっぷり有る』
グロウはそう言ってはっはと笑うと、おもむろにジローへと顔を向けた。
『今夜は張り切りすぎたな。これから帰って、何か作ってもらえないかな』
グロウの問いに、ジローは良いですよ、とにっこり笑う。
『よし。ならば善は急げだ。ここはうちの連中に任せて、二人で先に帰るとするか』
はっはと笑うグロウの提案に、エマがぎょっとした顔を見せる。
『グランパ、護衛付けなくて大丈夫――』
『構わんよ。どうせ今夜はもう何もないだろうしな』
心配性だな、と置いていた片手でエマの頭をぐしゃぐしゃにするグロウに、エマも一応嫌がる素振りを見せているが、目が笑っていた。
『よし、ハヤトくん、私たちはこれで帰るが、エマとジャックを頼むよ』
グロウはエマの頭から手を離し、隼人に向けて手を差し伸べる。
『ええ、もちろんです』
隼人も手を差し出し、互いに握手を交わした。
『――あれ?スバルは?』
グロウとジローが立ち去ってすぐ。
エマがふと思い出したように問いかけた。
『あれ?そう言えばあいつ、居ねえな』
『どこ行ったんだろ、外かな?』
エマが辺りを見回しながら重ねた問いに、かも知れないなと応える隼人。
『ま、出てみりゃ解るさ。――とにかく、帰ろう。ホームに』
隼人がそう言って微笑むと、エマも仕方ないな、と、傍らで微笑むジャックに微笑み返しながら答え、三人は正面の入り口に向けて歩き始めた。
(ブルックリン区イーストニューヨーク。東ブルックリン工業団地にある廃工場前。PM6:00)
「――ふう」
グロウ達が工場内で話し込んでいる頃、昴は独り工場の外に出てきて、ひんやりとした夜の空気を思い切り吸い込んでいた。
「――やっぱり、隼人はすげえよ」
彼はそう呟くと、出てきたばかりの廃工場を見上げる。赤いレンガで出来た年代物のその工場は、満月の光に照らされて、まるで一枚の絵画のような幻想的な光景を醸し出していた。
「まったく、情けないったらないよなあ」
その光景を見つめながら、彼は苦笑いとともに自嘲気味の声を上げる。
先ほどエマが隼人をかばったまま力尽きたのを見て、胸の奥でちくり、と微かな痛みが走った彼は、自身の気持ちを整理するために二人よりも先に外に出てきたのだ。
もちろん、その痛みは恋愛感情のそれではない。
むしろ、彼の実の妹であった穹に対する感情に近いものであっただろうと思われる。
「妹を嫁にやる、兄貴の気分――はっ、笑えないな」
彼は苦笑いのままで東の空を見る。既に日の沈んだ夜の空には、まるで彼を称えるように、満点の星が瞬いていた。
うわ、おっきい!ねえねえ、オリオンってこんなに大きかったんだね。
不意に脳裏に浮かんだのは、穹ではなく瑠璃の言葉だった。
以前彼女が旅行先の沖縄から電話してきた時の、あの嬉しそうにはしゃぐ言葉が。
「……瑠璃の顔、見たいな」
東の空に登りはじめたオリオンを見つめながら、彼がぽつり、とつぶやいたその時だった。
ぱんっ、という乾いた音が、何処からか昴の耳に飛び込んできて、彼は思わずびくり、と身体を震わせる。その微かに聞こえたその音が、先程も工場内で聞いた発砲音と似通っていたことに気づいた彼は、その音がした方向――工場の右手にある道路を覗きこむ。その道路には、グロウファミリーの面々が乗ってきたのであろう車が何台か停まっていたが、その車の隙間を縫って、ジャスティン・グロウがふらふらと逃げ惑っているのが見えた。
『グロウさん?!』
車にぶつかってはよろけるグロウに思わず声を掛けようとした彼の視界に、グロウの背後に迫り来る襲撃者の姿が映り、思わず口を両手で覆ってしまう。
(……ジローさん?え、なんで?)
そう。
グロウを襲っていたのは、先程まで彼の隣に付き添っていたはずのジローであった。ジローは左手で髪を苛立たしげにかき乱しながらも、右手に持った彼の銃はひどく冷静にグロウへと照準を合わせている。
『なぜだ!なぜお前が!』
グロウの苦しげな声が、ナイフのようにジローに突き刺さる。
『3年、3年だぞ?お前が俺の専属になって3年間、俺はお前に良くしてきたはずだ!それがなぜ――』
グロウの言葉は、ジローの放った二発目の弾丸によってふつり、と途切れた。
(あ、ああ、グロウさん……)
昴は物陰に身を隠しながらも、それでも二人から目を離せないでいた。
頭の中をエマージェンシーコールが鳴り響き、早く逃げろと彼の理性も叫んでいるはずなのに、足腰の力が抜けてしまって、身動きが取れずにいるのだ。
(どうしてなんですかジローさん。貴方はそんな人じゃないはずだ。それがなぜ――)
『――悪いね。これも仕事だったんで』
車のドアにもたれかかって呻いているグロウに、ジローが声をかける。その声の調子がこれまで聞いていた彼のものとは全く違うことに、昴は驚きを隠せないでいた。
『き、貴様……3年間、声音すら変えてたのか!』
口から血を溢れさせながらのグロウの問いに、ジローはもちろん、と不敵な笑みを浮かべる。
『ほんとに、長かったよなぁ。あんた、今日まで一日たりとも一人になったことがなくてさ、何度諦めようと思ったことか』
ジローはそう言うと、満身創痍のグロウに三度銃を向ける。月明かりに照らされたその表情は、しかし悲しみに溢れているように、昴には見えた。
『――楽しかったよ、この三年間』
『じろおおおおっ!』
ぱんっ。
三度聞こえた微かな発砲音とともにグロウの後頭部がスイカ割りのスイカのように弾けるのを、昴はただ呆然と見つめるしか出来なかった。
「ほんと、楽しかったよ。自分が殺し屋だってこと、忘れそうになったくらいに」
地面に崩折れた、弾けて後頭部のないグロウに顔を向けながら、ジローがポツリと呟く。
「このまま依頼を忘れて、料理人としてやってくのも悪くねえな、って、何度考えたことか」
(――え?まさか)
昴はふと、その時初めてジローが英語じゃなく日本語で話していることに気がつき、戦慄を覚えて慌てて身を隠す。
(いやしかし、まさか。こちらに気づいてるのか?それとも)
「――あんたもそう思わねえか、昴くんよ」
「ひっ」
突然耳元にジローの囁く声が聴こえてきて、昴は慌てて飛び退る。
「じ、ジローさん?!な、なんでこんな」
「だから、仕事だって言ってんじゃん」
慌てて問いかける昴にジローは呆れたように返すと、ふと気づいたように腕時計を見つめ、「――っと、時間だな」と呟いた。
「じ、時間って、」
昴は慌てて振り向きながらそう問い掛け――
そして、身体を引き攣らせた。
ジローの銃が、彼をまっすぐに捉えていたからだ。
「ワリイな。――ま、後はあんたの運次第、ってな」
それが、昴の聞いた、最後のジローの言葉だった。
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