"Mosaic" Last Episode"WB~Welcome Back"
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――そこは、純白の世界だった。
見上げても、
見回しても、
見下ろしても、
ただの真っ白な世界。
まぶたを閉じても網膜に写り込んでくる眩い光が、
俺の心を――俺の全てを
本来の俺とは違う何かに変質させていく気がして、
俺は世界を拒絶するように叫び声を上げるが、
何故かその声は俺の耳に届かない。
何も見えない、何も聞こえない。
ただ真っ白なだけのこの世界。
叫び疲れた俺は、その場にぐったりと座り込み、この世界にいる理由を考え始める。
――この世界に来る直前の記憶。
ぼんやりとではあるが、その記憶を僕は持っていた。
夜空に輝くオリオンの光。
煙を吐き出す銃を向ける、一人の男。
全身にじわり、と染みこんでいくように拡がる痛みと寒気。
遠くなる意識。
俺の名を呼ぶ、誰かの叫び声。
――俺の、名。
俺の名前は、何だったのだろう。
喉の辺りまで出かかっているのに、どうしても出てこないその名前を、俺はなんとか思い出そうと記憶をたどる。
――穹。
ふと思い出したその名前に、俺は身体を震わせる。
それが俺の名前ではないことは知っている。
しかし、俺にとって大事な名前であることも知っていた。
――穹。
俺は無音の世界の中で、その名を口にする。
すると、目の前に、少女の形をした”もや”がぼんやりと現れる。
突然の世界の変容に目を見開く俺にその”少女”は薄く微笑むと、ゆっくりと口を開いて、声にならない声を発する。
俺の耳には何も聴こえなかった。
聴こえなかったが、俺には”少女”が何を言っているのかは理解できた。
彼女は、こう言っているのだ。
『みんな、まってるよ』
と。
そして。
純白の世界は一気に暗転し、水平線から朝日が登るかのように、世界がゆっくりと、上下に裂け始める。
――いや、違う。
世界が裂けているのではない。
――俺は。
俺は、戻ったのだ。
現実の世界に。
俺が生きている世界に。
(ニューヨークマンハッタン5番街。ベスイスラエルメディカルセンター。入院病棟。PM4:00)
「……あ、起きた、起きたよ!」
瞼を開けた昴の、そのぼんやりとする意識の向こう側から、聞き慣れた女性の声が聴こえてくる。
「何やってるの早く先生呼んできてよ寝てる場合じゃないでしょ早く」
「分かった!分かったから、落ち着けって瑠璃!」
(――瑠璃?)
昴の耳に飛び込んできたその名前に、彼の思考が一瞬迷う。
(瑠璃?いや彼女は今日本に居るはず)
昴がぼんやりとした意識の中、声のする方へと目を向けると、彼の寝ているベッドのすぐそばで、要にくいかかっている小柄な女性の姿を見つけた。
瑠璃だ。
瑠璃の特徴である肩まで伸びた鳶色の髪も今はポニーテールにしているようだったが、これは恐らく昴のためなのであろう。
(瑠璃……来たのか)
瑠璃はその黒褐色の大きな目で要を睨みつけると、腰に手を当ててぐい、と彼に近寄る。
「落ち着いてられないって!いいからほら早くしてよ、マネージャー!」
「何でこういう時だけその呼び方するかな君は――ってそんな場合じゃなかったか」
まだどこか靄がかかったような意識の中、男性の「とにかく行ってくる」という声と慌ててかけ出していく足音を聴きながら、昴はやはり焦点の合わない世界をぐるりと見回す。
(白い――そうか、病室か)
先ほどの純白の世界の意味はこれだったのか、と、一人納得して薄く笑う昴に、それを見た瑠璃が顔を真っ赤にしてその顔を覗き込む。
「なに笑ってるのよ、こっちが――」
憤慨して発せられた瑠璃の声が、しかしそれ以上は涙が溢れて言葉にならないでいるのを、昴は優しく微笑みながら静かに見つめる。
「こっちが、どれだけ、心配した、と――」
瑠璃がぽろぽろと流した涙が昴の頬に落ち、そのままそのきめの細かい肌を伝って、形の良い耳の付け根へと流れ落ちていく。
「……ごめんな、ほんと」
しばらく声を出していなかったせいか、昴の口から、普段の彼からは想像もつかないほどに掠れた声が聞こえ、瑠璃が慌てて首を横に振る。
「ううん。こっちこそごめん」
昴は瑠璃のその言葉に思わず起き上がりそうになるが、瑠璃がこら、と言いながら、彼が起き上がれないように両手で彼の頭を挟み、そして彼の耳元にそっと顔を近づける。
「――良いの。生きてただけで、十分」
彼女はそう耳元で呟くと、そのまま伸し掛かるように彼の唇に唇を重ねた。
(ニューヨークマンハッタン5番街。ベスイスラエルメディカルセンター。入院病棟。PM4:30)
「まったく、お前は何やってんだか」
医者の診察を終え、再びベッドに横たわった昴に、部屋の隅に座っていた要がまず発したのがこの一言だった。
「俺が不在だったとはいえ、無茶がすぎるぞ。今回はこの程度で済んでよかったがな、下手すれば死んでたんだからな、マジで」
要のその呆れてるのか憤慨しているのかよく解らない口調に、昴は苦笑いしつつすみませんでした、と返す。
「しかし、エマの傍にいたあの料理人が殺し屋とはね。まったく想像もつかなかったよ」
数分前。
医者の診察を受けていた昴のもとに要とともに現れたのは、ICPOの捜査官だった。
昴が彼らに尋ねられるままに――自分の覚えている限りではあったが――撃たれる前後の状況を証言すると、そのお返し、という訳ではなかったのだろうが、捜査官の一人がジローについての情報を教えてくれた。
『ジロー――本名、ジロー・ネジメというんだが、まあ、地道だが間違いない仕事をする『職人』として、その業界では有名な存在でね』
『職人――ですか』
『そう。対象の懐に長い期間を掛けてじわじわと忍び寄り、確実に仕留めるってんで、その評価は高い。あと――』
『あと?』
『――料理が上手くてな、特にピザが絶品なんだそうだ。君も食べたかね?』
「ほんと、お前が生きててくれて良かったよ」
そう言って笑う要に、昴はただ苦笑いしか返せない。
「俺も、自分が生きていたのが信じられませんからね」
そんな冗談を口にする昴に、要ははっは、と笑う。
「――しかし、お前も運が良いよな。腹部に一発撃ち込まれたのに、内臓には傷ひとつ無かったなんて」
要の言葉に、昴は一度開きかけた口を閉じる。
違う、と思った。
運が良いのではない、と。
『ワリイけど、しばらくお休みしてもらうから』
ジローが最後に言ったその言葉。
それがどういう意味だったのかを、今の彼は本心から理解できていたのだ。
「ま、それでも出血多量で死にかけはしたんだから、もう少し病院の世話にはならないとダメだけどな」
言い止めた昴に気を留めること無くそう続けると、要はよいしょ、っと、と呟きながら立ち上がった。
「せっかく瑠璃も来てるんだ、少し彼女に甘えておけ」
三日間、つきっきりだったんだぞ、と苦笑いしつつ歩き出す要に、昴はにこやかに微笑み、
「はい、そうします」
と頷いた。
ジローの言葉の意味。
誰も居なくなった病室で、昴はその事を考える。
(彼は、俺を殺さなかったんだ)
昴は天井のシミを見つめながら、確信を持ってそう思う。
(彼の目的は、グロウさんを殺害することと、そして――)
『だから、仕事だって言ってんじゃん』
彼が昴に言った言葉が、昴の脳裏をよぎる。
(有名な日本人である、俺に怪我を負わせることだったんだ)
グロウがあの工場で言っていた、真の黒幕の話。
もし黒幕が彼の考え通りなら、あの街を混乱に陥れる手段を他にも用意していたはずで、その他の手段が、ジローだったのではないだろうか。
(あの街で、アメリカ人が襲撃を受けても世論は大きくは動かない。だけど、傍にいた普通の日本人が撃たれたとなれば――)
――世論は動く。
撃たれた日本人は悲劇のヒーローとなり、世論は一気にあの街の悪漢たちを排除にかかることだろう。
(まあ、撃たれた当人が心配することでもない、か)
昴がそんな事を考えて一人苦笑いしていると、病室のドアがノックされ、三人の男女が飛び込んできた。迅、隼人、そしてエマの三人である。
「昴、すばるううう!」
迅が病室の窓ガラスを震わせるくらいの大音響で叫びながら、ベッドの上の昴目掛けて飛び込んでいく。
「良かった、良かったあ!」
「いや、痛いから!迅、痛いからそこ!」
撃たれた腹部目掛けて飛び込んできた迅を必死になって引き剥がそうとする昴を見て、エマが呆れたような表情を見せる。
『――そんなにじゃれてると、また傷口が開いちゃうよ』
『いや、好きで抱きつかれてる訳じゃない――』
即座にツッコミを入れる昴に、隼人が思わず吹き出した。
「いや隼人、笑ってないで何とかしてくれよ」
「良いじゃないか、迅も心配してたんだから」
口を尖らせた昴に、くっくっと笑って切り返す隼人。
「ほんとによお、俺ばっかりのけもんにしてさあ」
迅が昴の腹部にうりうり、と顔をうずめながら、くぐもった声を発する。
「いや、悪かった。悪かったから、離れろ気持ち悪い」
「気持ち悪い、って、酷いわあっ」
『だからあ、何でそんなに楽しそうなのよスバルってば』
『楽しそう?どこが!』
ようやく迅を引き剥がすことに成功した昴がエマを見ると、何故かエマはニヤニヤと笑っている。
『だって顔が笑ってるじゃない。ねえ、ハヤト?』
『ん?ああ、楽しそうだな』
エマにそう返した隼人もまたエマと同じようにニヤニヤと笑っていたことに、昴は諦めたように天を仰いで、『ああちくしょう、好きにしてくれ』と、ベッドに倒れ込んだ。
(ニューヨークマンハッタン5番街。ベスイスラエルメディカルセンター。入院病棟。PM5:12)
「――よし、っと」
夕暮れ迫る病室。
ベッドで横になる昴の傍で本を読んでいた瑠璃がゆっくりと立ち上がると、大きな伸びをしてから昴に微笑みかける。
「そろそろご飯食べてくるけど、何かして欲しいこと、有る?」
瑠璃の優しげな口調に、昴は微笑み返しながら首を横に振る。
「そっか。じゃ、行ってくる」
瑠璃がそう言って病室を立ち去ると、まるで音が彼女を追いかけていったかのように、ふい、と病室に静けさが訪れる。
昴はその静寂に身を委ねるように、静かに目を閉じた。
――どれくらいの時間が経ったのだろう。
目を閉じていた昴の耳に、微かな足音が聴こえてきた。
瑠璃が戻ってきたのか、と昴が目を開けようとすると、柔らかな掌がそっとその両目を覆う。
「瑠璃?ふざけてないで――」
言いかけていた昴の口を、軟らかな指がそっとふさぐ。
「残念だけど、人違いね。――少し静かにしててくれないかな」
突然耳元に聴こえてきた艶のある、明らかに美しい女のそれと判る囁き声に、昴の身体がぶるっ、と痺れたように震える。
「手短に。次郎からの伝言よ。今回の――」
ジロー、という名が出された瞬間、昴は混乱した思考から一気に立ち直り、軽く頭を振って口を押さえていた指を振りほどく。
「あら。大抵の男は私の囁きに骨抜きになるのに、凄いわね、あなた」
驚く、というよりは、どこか楽しげな口調の女性の声に、昴はゆっくりと口を開いた。
「あの、一つだけ」
「何かしら。私の姿も含めて、プライベートな事は答えられないわよ」
昴の言葉に、女性はそう応えてくすくす、と笑う。
「――いえ、ジローさんの事です」
昴が真剣な口調で返すと、ああそう、と、心底残念そうな声が返ってくる。
「あなた遊んでそうだから、少しくらい良いかな、って思ってたんだけどな」
彼女の、やはり楽しげな声に、昴は両目を塞がれたままで苦笑し、女性が立っているらしき位置に顔を向ける。
「――あの人、ジローさんの本質は、どちらなんですか?」
「どちら、というと?」
女性に逆に問われ、昴は顔を天井に向けて、
「ホームで――あのグループホームで、子供たちと笑っていた彼と、俺に銃を向けていた彼と、です」
昴の静かな言葉に女性はクスクスと笑い、彼の目を押さえていた手をそっと離す。
昴は手が離れて自由になった両目を開くと、ゆっくりと女性に目を向ける。
それは、鮮やかな黒い髪だった。鮮やかな漆黒の長い髪が、窓から朧げに差し込んでくる光を受けて、艶やかに輝いている。まるで、深い森の奥で月の光に照らされてひっそりと落ちる滝のような、はかなさと繊細さをもったその髪を、昴は食い入るように見つめていた。
「――なるほど。次郎が気に入るわけか」
黒髪の女性は少し呆れたような、それでいてやはり楽しげな口調で呟くと、その豊かな胸を支えるように腕を組み、
「伝言、良いかしら」
と、妖艶な笑みを浮かべる。
「まあ、そう言っても、たった一言だけなんだけどね。――まったく、アイツはエージェントをなんだと思ってるんだか」
途中から本気で呆れ声になった女性のコミカルさに、昴は可笑しくなってくすり、と笑う。
「ほんと、あなたのその度胸、気に入ったわ。――と言っても、もう二度と会うことはないでしょうけどね」
彼女はそう言うと、先程瑠璃がしたように両手を上げて伸びをする。
「――ああ、伝言だったわね。『ダンス、最高だった。今度はちゃんとステージを見に行く』だってさ」
「ステージ――」
昴はその伝言に、ホームでのジローを思い出し、窓へと目を向ける。
子供たちの笑顔に、笑顔で応えていたジロー。
もしかすると、あれが彼の本質だったのではないだろうか。
「――あの、」
彼が意を決したように室内に目を向ける――
――と、そこには既に、女性の姿はなかった。
「ごめーん、エマちゃんと話し込んじゃってさ」
数分後。慌てた様子で病室に戻ってきた瑠璃に、独りで横になっていた昴が微笑みながらいいよ、と返す。
「大丈夫?何もなかった?」
ぱたぱたとスリッパの音を立てながら近づいてきた瑠璃に、昴は微笑んだままで何も、と返す。
「それより、疲れたからもう寝るよ――瑠璃、」
昴は瑠璃の名を呼ぶと、点滴のチューブが繋がったままの左手を彼女に差し出し、瑠璃は両手で包み込むように、その手をそっと握った。
「……出発前に、私、”帰って来なかったら、許さない”って言ったよね」
軽く詰問するような、しかし優しい口調で、瑠璃が言う。
「俺は、”帰って来る”って言っただろう」
昴は苦笑いとともにそう応えると、まっすぐに彼女を見つめた。
「――愛してるよ、瑠璃」
掠れた、しかし力強いその声に、瑠璃は優しく微笑むと、彼の額に自分の額をこつん、と軽く当て、
「――おかえり」
と、囁いた。
――それから一週間ののち。
昴はエマや隼人、迅に見送られて、要と瑠璃とともに、日本へと帰国した。
――そして、物語は2ヶ月後、秋の深まる時期へと進む。
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