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SM/主従をしたい人と、S気質/主気質である人の違い
SMと主従の違いについてはいったん置いておく
今回はもっと上流の話から入ります。いったんサディスト勢もドミナント勢も、広義のサディストと定義。
SMを舞台と捉えるか、舞台から降りたらSMが始まるか
健康な男子諸君なら、一度はあんなことやこんなことをしてみたいと思うし、機会があれば実践してみたりというのは当然のこと。
私はそれを舞台と名付けました。舞台の上でS役はサディストを演じ、M役はマゾヒストを演じる。
一方で生まれながらのサディストは、社会の中でそれを隠して生きざるを得ないことが多く、たいていはバレないように振る舞っているのでは?
彼らにとってサディズムを発散できるときというのは、家に帰ってソファーにダイブしたり、風呂で身体を休めているときの感覚に近い。
こういうサディストにとって奴隷とは、そういう素の自分を解放したときの対存在であり、奴隷はその本能的な姿に絶対的な服従心を覚えるのでしょう。
いい女を奴隷にしたいというのはただの女好きか自己承認欲求
厳しい言い方ですみません、でもこれが真理でしょう。
彼らはいい女が好きなのです。そして、いい女にこんなことをしている自分を自己差別化して、多幸感を感じている。ハーレム思考もこの心理の延長線にあります。
サディスト、というよりはその中のドミナント、もっというと調教師を名乗る人たち。彼らは調教によって自分好みのいい女にしようとします。語弊を恐れずいえば、相手は調教余地があれば誰でも良い。とはいっても、その調教余地を見極めるのがまあそれなりに審美眼を必要とするのだけど。
奴隷に玩具を使うのが主従プレイ、奴隷を玩具にするのが主従関係
言葉の通り。それ以上でも以下でもない。もともと奴隷とは貴族が生活を便利にするために生み出した道具であり、そういう制度、そういう仕組みです。
そこに愛情が芽生えることはあるかもしれないが、それは結果論であり目的ではありません。
奴隷を玩具で喜ばせてもいいのだけど、それは突き詰めると執事とお嬢様のような逆転現象が起きてます。お嬢様が、「セバスチャン、私を気持ち良くなさい」とでもいうような。
好きにすればいいのだけど、誤解しあわないために
別に馬鹿にしてる訳ではありません。ただ、同じ単語でも意味することがまったく違うので、相手を探したり、相手と対話するときに、お互いが誤解を生まないように、相手がどちらの意味でその言葉を使っているのかは見極められるといいと思います。