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【映画考察・感想】ブルータリスト
序文
第97回アカデミー賞作品賞ほか10部門にノミネートされている『ブルータリスト』を2/22(土)に視聴してきました。
第二次世界大戦終戦後、迫害から生きながらえたユダヤ人建築家がひとつの建築作品を完成させるまでの足跡に焦点を当てたフィクション作品です。
普段建築プロジェクトに関わる私としては、なぜあえてフィクションで、このようなプロジェクトXみのあるストーリーを映画にしたのか、強い疑念を頂きつつ映画館に足を運びました。視聴を経て、その答えを私なりに洞察しましたので、視聴を検討している皆さま、題材に興味を持たれた建築界隈の皆さまにご一読いただけると嬉しいです。
1.ブルータリスト あらすじ(ネタバレ無し)
実はこの作品、215分という長尺作品でして、アイドリングタイムを挟んで前編後編でパートがわかれています。
前半パートは、第二次世界大戦のホロコーストを生き延びたラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ:過去『戦場のピアニスト』でアカデミー賞主演男優賞 最年少受賞)という建築家がアメリカに上陸するシーンから映画が始まります。実業家ハリソン(ガイ・ピアース)と出会い、市民が集う多機能の礼拝堂を設計依頼することで、ラースローの新天地での物語が動き出します。
後半パートでは、かつて迫害で引き剥がされた妻エルジェーベト(フェリシティ・ジョーンズ)、姪ゾフィアがラースローの後追いでアメリカにたどり着き、ラースローと再開するシーンから始まります。件の礼拝堂建設PJTがさまざまな要因で苦難を迎えるなかでも施設完成に向けて、登場人物同士の思惑が錯綜する様子が描かれます。
ブルータリスト、とはブルータリズムという建築様式から派生された造語であり、作中で形作られる礼拝堂もブルータリズムを地でいく堅牢で荘厳な佇まいそのものでした。一方で、語源であるブルータル=荒々しさは作中の人物(後半に詳細記載します)を暗喩したダブルミーニングなのであろうとも感じられました。
2章以降でネタバレを含みます。ネタバレを読まずに、視聴をご検討される皆さまに注意しておきたいのは
・主題は「建築家のプロジェクトX譚」ではないと、わたしは受け取っています。映画館内では、寝食を忘れて建築に打ち込んでいそうな未来の巨匠が多かったようにも見えましたが、彼らの期待に答えられた作品になっているかと問われれば、必ずしもそうではないと私は思います。
・ではこの作品は何を描きたかったのか。
今欧州圏を中心に、また目下日本でも取り立たされている問題を、限りなくミクロな視点で描かれた作品なのだと、私は受け取りました。そのテーマを強調するうえで、架空の建築家という人物が抜群にハマっていたように思います。
2.作品から感じたメッセージ性(ネタバレあり)
この作品から私が感じたのは、現代の移民問題に通ずる「異なる民族や宗教間の根底にある相容れなさ」です。
作中には、登場人物同士の対立が数多く描かれるのですが、端々に描かれるフラグにはいずれも「民族や宗教の違い」が根を張り、作品全体に終始緊張感を持たせています。
前半パート序盤、アメリカにたどり着いたばかりのラースローはフィラデルフィアで家具店を営む従兄弟のもとを便ります。そこで実業家ハリソンの書斎をサプライズで改装するという仕事をハリソンの息子から請け負ったのですが、何も知らない肝心のハリソンが改装を終えた部屋を見て「何を勝手にしくさってるんじゃ」とブチギレ。口約束の請負金も支払われず、従兄弟はラースローがデザインにこだわり吊り上げた高い材料費を呑まざるをえない状況になります。
このパート途中、従兄弟がすでにアメリカで縁を結んだ妻の影響でユダヤ教からカトリックに改宗している事実が告げられ、静かな布石として打たれますが、上述のトラブル発生と同時に、異教徒である彼の妻に理不尽にもハメられ、米国内で唯一の頼りであった従兄弟の家を追い出されるシーンで序盤パートは締まります。
そう、とても理不尽なのです。確かに材料費を吊り上げたのはデザインにこだわったラースローなのですが、そもそも事前に契約を撒かない(時代性もあるかもですが)従兄弟が一番の問題なのは無論であり、もう一方の問題となった従兄弟の妻に至っては、ラースローが明確に怒りや恨みを買った描写もありません。
この作中最序盤のパートでは、理不尽な扱いを受けたユダヤ移民が気の毒、という構図が出来上がります。しかしながら、作品全体としては移民側の弱い立場を訴えた作品でなく、むしろ立場の違う者同士が折り合いをつけられない苦しみをミクロな距離感で淡々と見せられる映画なのだと、視聴を続けるうちに次第に気付かされます。
さて、ここで戦後の建築家という設定が活きてくるのですが、ラースローはかつてバウハウスのデッサウで建築を学び、本国ハンガリーではすでに公共建築を手掛けるなど一定の名声を上げていた人物であるという背景が明かされます。この設定を知ったハリソンは心を(表面的には)入れ替え、再度ラースローに接近します。
バウハウスの創立者、ヴァルター・グロピウスは全ての芸術の統合を目指し、その中心=教育課程のゴールとして建築学を据えた点はデザイン史においても興味深い事実ですが、そんな最高学問を修めたラースローも漏れず建築に対する高尚で詩的な、今どきに言えば「拗らせた」思想を持っております。その考えに共鳴した、いや、実際は表面的に共感を示した実業家ハリソンと再び繋がることで物語は加速し、作品後半では2人のプライド同士が衝突する形になります。
1章にて架空の建築家という設定がテーマを強調するのに貢献したという趣旨の記載をしましたが、ネタバレを含みつつ仔細を示すとすれば、『崇高な仕事をしている』自負のあるラースローのプライドが、私が作品テーマだと捉えた「異なる出生や宗教間の根底的な相容れなさ」、つまりプライド同士での殴り合いを最大加速させる燃料になっているように感じた、というのが正確な表現です。
建築に対する想いをぶつけ合うシーンは2人の歩み出しのきっかけとなりつつも、ラースローおそらく腹の底で「こいつ何も解ってないだろうな」と成金ハリソンを見下していたように見受けられ、またハリソンはハリソンで不合理で金にならない能書を垂れるように映るラースローを見下していたように感じられます。それでも一定の共感を示すことで自身も「解っているよ」風を出したあたり、多くの人が心当たりあるとても人間臭い振る舞いだったように思います。
そんな危うい支点のうえで保たれる均衡が、作品を終始緊張感あるものに仕立てていました。
また、後半パートでは、ユダヤ人としてのハートを抑えきれずアメリカ人と全く口を利こうとしない姪、なんとか折り合いをつけようとするがスイッチが入ると手がつけられなくなるラースローや妻エルジェーベトなど、ユダヤ人メンバーそれぞれも、プライドを絶妙な温度差で描き分けます。
テーマを象徴しているなと感じたシーンとしては、
①作中随所にある性描写:これらは終始「民族対民族、もしくは個対個のマウンティング=プライドの誇示」として描かれていると感じさせられます。振り返れば、作中冒頭にラースローがアメリカ人娼婦相手に買春を行うシーンがあるのですが、ただ性欲を満たしたいがためだけのプレーではないことが、体位から伺えます。ラースローとエルジェーベドも、性交渉の描写によってパワーバランスが伺い知れます。悲しくも、物語終盤にラースローとハリソンの決裂の決定打となるのも、マウンティングが根底にある性描写です。
②理不尽な縁切り:物語終盤で、ホームレス時代から長年連れ添った黒人の友人に対し、精神均衡を失ったラースローが一方的な縁切りをする描写があります。それまでは家族同士のディナーを催すなど交友をしたためた描写があったと思いきや、極めてあっさりとした理不尽な別れとなります。これは言わずもがな、冒頭の従兄弟とラースローとの関係や、現場トラブルが起きる都度ハシゴを外すハリソンとラースローの関係をトレースしている描写であると捉えられます。「相手より立場が上」であるという醜い自尊心は限りなく不毛に広く根を張り、表面的に強固だった関係は些細なな引き金で脆くも崩れ去るという普遍性を痛いほど突きつけられます。
③紆余曲折ありつつも建築PJTが終盤を迎え、ラースローはこだわりの石材の実物を見に行くため、ハリソンを連れてイタリアを訪れます。そこで案内役となるラースローと既知の仲であるイタリア人が、待ち合わせに遅刻してなお彼がのんびりとコーヒーを注文するシーン、呆れるハリソンとさも当然と振る舞うラースローが描かれます。些細なシーンですが、アメリカ人のビジネス感覚では許容し難いという心情と、美意識を共感できる仲であれば些末なことはどうでも良いと言わんばかりの心情の対比が描かれます。また、この3人のパートでは、これまでのアメリカのシーンとは反対に、物理的にも精神的にもアウェーになったハリソンがフラストレーションを募らせ、先述の性描写=プライドの暴発に帰結します。
様々記述しましたがこの作品が何を描きたかったのかを私として洞察したものを整理しますと、
・本作品は建築家の生涯やひとつのプロジェクトに焦点を当てた作品ではない
・異文化、異思想の接触においては双方プライドが根底にあり、表面的に上手くいっていた関係も些細な引き金によって炎上してしまう。この均衡の危うさをミクロに、バリエーション豊かに描いたのが本作である
となります。
移民として受け入れられる立場、受け入れる立場、当事者それぞれがここまで懊悩している様を近距離かつ第三者の視点で愚直に描き切ることで、移民政策を支持したり反対したりする人々に対して「そんな単純なものなのか」と、今をときめくA24が風刺したメッセージのようにも受け取りました。
3.パンフレットに仕込まれた巧妙な仕掛け(ネタバレ?)
トップ画像に貼っていますが、この映画、「上映前やアイドリングタイムに読んでください」という体裁で、作中に建設された礼拝堂に関するパンフレットが渡されます。スクリーンの外にフェイクドキュメンタリーを持ち込んだような仕掛けですが、事もなげに建築の美しさやラースロー本人の生い立ちを語るパンフレットは、上映前にはプロジェクトX的なストーリーに対する期待感を煽ります。ところが、この紙切れは過程の醜さから目を逸らした白々しいものであることが映画終了後に理解できます。
映画の最後、ラースローは「終わりよければすべて良し」的な言説を残したとして姪がスピーチするシーンでエンドロールを迎えますが、それは彼の本心であったとはとても私は思えませんでした。
4.感想、その他
215分という長尺は人を選びますし、妥当な時間配分だったかと問われると少し悩みます。また、決してカタルシスを感じられる決着でもありません。こういった視点から、手放しにアカデミー賞作品賞を受賞間違いナシとも言えない想いです。
しかしながら、現代の移民問題にも通ずる強いメッセージ性、登場人物の感情が爆発するまでの丁寧な積み上げなど、実に巧妙で、あとあと言語化するほど腹落ち感があり咀嚼の楽しい作品だったと感じています。
最後にご案内です。
星野リゾートトマムにもブルータリズムの巨匠、安藤忠雄氏の設計した「水の教会」があります。自然豊かな土地に佇む無機質なそれは、映画作中の礼拝堂の気配に通ずる何かを感じ得ます。
わたしも未だ訪れたことのない施設ですが、建築がこの土地に根付くまでに経た決して知り得ない人間ドラマ、人々の記憶に想いを馳せて足を踏み入れてみたいと、たった今キーボードを叩きながら悶々としています。
本記事は以上となります、ご閲覧いただきありがとうございました!