見出し画像

「音楽no無駄na昔話」 vol.2

<PA史に関わるど素人なあれこれ>

ああ、昔話を始めると止まらなくなると、昔の人が言ってたなー笑。

先日、といっても一昨年になるが、久々の中野サンプラザでとある尊敬してやまないミュージシャンのコンサートを観た。
ライブ内容は本当に素晴らしく、他に得難い極上のステージだったが、一つだけ残念だったことがある。

それはPAシステムの在り方だ。

決して音が酷かった訳でも、バランスが悪かった訳でもない。
ちゃんと楽器もVoも聴こえていた。

その日サンプラのステージ上下の袖には、想像外の小さな、たぶん相当効率化されたスピーカーシステムがこじんまりと置かれ、客席内のPAブースには簡素(といっては失礼なのか)な、デジタル卓が、ノートPCと共に、これまたこじんまりと設置されていた。

客席に対して必要十分な音量・音像を提供するには、きっと数値上は充足されたシステムなのだろう。さらに客層に対する配慮もあるだろう。

しかし僕にとっては、慣れ親しんだサンプラザで、過去に何度も見たそのミュージシャンのサウンドに対し、その日はコンサートの最後まで音圧と音場の幅に対する物足りなさが残った。

1965年8月、ビートルズはニューヨークのシェア・スタジアムで5万6千人の観衆を集めたコンサートを行った。

しかし待ち望んだビートルズの演奏と歌は、あまりの大観衆の歓声にかき消され、40分の演奏時間の間、聴衆や本人達にもところどころしか聴こえなかったのだ。

当時の音響システム、つまりPAシステム(現在はSRシステムとも呼ぶ)はあまりにも貧弱で、数万人の観客に音楽を伝える音響設備の役目を果たし得なかったのである。

その後10年間のPAシステムの変化と技術発達のスピードは、英米マーケットで必要に追われ、想像を絶する強力な速さだった。

時代は、一つのバンドのレコードが、全世界で数百万枚も売れるメガヒットの頻出する時期となっており、コンサートツアーの規模も年々巨大化して行った。
収益の効率化を図るため、プロモーターは大きなホールやスタジアムに対応できる音響システムを一刻も早く求め、技術者たちはその目的に向かい必死で追従していった。

ただ、当時のPAシステムは効率化とは程遠く、凄まじく電気容量を食う高出力のアンプで、何段もスタックされるスピーカーはとめどなく巨大化されていった。

同時期、日本は英米の音楽のマーケットとして、洋楽レコードの売れ行きは急激な上昇カーブを描いており、コンサート需要も高く、重要な金脈と見なされていた。

その結果、70年代は毎年十数組の人気のある海外アーティスト(外タレ)が招聘され、日本の大都市をコンサートツアーで廻っていた。

もちろんその様な場合、PAシステム含めた大規模な機材を英米本国から持ち込むことになるが、地球のファーイーストに存在する日本へ、英米から大量の機材を輸送するのは、もちろん莫大な費用と時間が掛かった。

そこで、国内の音響設備・機器業者が外タレに対応できる機材を自前で持つことを望むのは、ウドーやキョードーなど費用を抑えたい国内のプロモーターとして当然の帰結と要望であった。

僕が音楽業界に関わりだした77年頃、ホールやスタジアムクラスでの国内のPAシステム提供会社のトップと言えば「ヒビノ」音響(HI-BINO)である。

ヒビノはそれまでも東京で定評のある音響システムを独自開発し、ほぼ独走状態のPA会社であった。

その数年前までは、JBLのスピーカーを組み合わせて、2-Wayシステムから進化し、4-Wayシステムまで作り上げ、パワーアンプはShure製、コンソールは独自制作の16chミキサーを使用していた。

ヒビノは国産のコンソール(YAMAHAなど)も使用していたが、凄いのは海外の最新音響機器を発掘するアンテナを持っていたところだ。

外タレが持ち込む機材の中からこれはという逸品を見つけ、輸入総代理店契約を結ぶ。
それを大規模なツアーで使用し評価を高め、PA事業の拡大にも、そして販売にもつながるという一石二鳥の戦略であった。

まず目を付けたのがパワーアンプ。米国の「Crown」社製のアンプの高性能さをピックアップして、国内で「AMCRON」というブランドで売り出した。今でもプロユースで定番のパワーアンプである。

そして、次が英国の「Soundcraft」社のコンソールである。堅牢なこの卓も当時、最新最良の性能を持っていた。

さらに、凄いのが独自のPAスピーカーシステムを開発したところである。
JBLを組み込んだ「HH3000」「BINCO」と呼ばれるオリジナルスピーカーシステムは、ヒビノ技術陣が苦労を重ねて作り上げた名エンクロージャーである。

*ヒビノオリジナルスピーカー、「HH3000」×6と「BINCO」×3(センター)

これらは来日する海外ミュージシャン、スタッフから圧倒的な評価を得て、ついには海外メーカーに真似をされるようになる。

そして、ステージで演奏するミュージシャンにとって、最も重要なのはモニターシステムである。
ヒビノのスタッフはこちらも独自開発し、「Soundcraft Series 2」を改造したモニター専用コンソールを運用した。これは画期的な卓で、ラインフェーダーを取り払い、トリムフェーダーを8個取り付けた。

ステージ上の各ミュージシャンに対し、どんな楽器のバランスも細かく調整してモニター返しが出来た。

*Soundcraft Series 2を改造した、モニターコンソール

さらにオリジナルのモニタースピーカーも2年がかりで開発。これも歴史に残る素晴らしい製品で、ことさら来日する海外ミュージシャンから愛された。このモデルは現在でも名機として知られており、今でも使用されている。

*ヒビノオリジナルモニタースピーカー「HM-151」

当時の外タレはPAシステムが「ヒビノ」だと知ると

「Oh-ハイ-ビノ!イチバーン!」と狂喜していたらしい。

音楽業界の様々な業務の中で僕自身の仕事が多様化し、コンサート制作に関わるようになった1979年前後、ヒビノはすでに国内のPA機器会社で圧倒的なシェアを持っていた。

ヒビノは外タレはもとより、コンサートツアーを開催できるようになった日本人ミュージシャンチームにPA機材とスタッフをレンタルする事業もおこなっていた。

当時、僕の近しい先輩に、超売れっ子のフリーランスのPAエンジニアの方が居て、なぜか可愛がられ行動を共にすることが増えて行った。

もちろんその方の選ぶ、PA機材とスタッフのファーストチョイスはヒビノ音響の機材であった。

その方に連れられて、当時白金にあったヒビノPA事業部(兼倉庫)にはよく行った。
ツアーに持ち出す音響システム一式を、調子の良い奴を選んで、他のツアースタッフが持ち出さないよう確保するのである。

そこで僕はヒビノの一線のPAスタッフの方々や研究開発の重鎮の方と知己を得て、お話も何度かさせて頂いた。
上記した逸品の開発担当者の方々である。

さて、そのフリーランスのPAエンジニアの方の別現場にも、僕はよく行った。
全てがトップクラスの当時も、今でもなお、誰もが知る超大物ミュージシャンやバンドのコンサートである。

その頃、僕自身はとある女性ミュージシャンの現場マネージャーと言う立場だったので、コンサートスタッフの舞台やPAや照明の仕込みに立ち会う必要性は基本的には無い。

ある日その方がこう言った。
「明日のサンプラザ、何もしなくていいから朝9時に入れ。そして、現場が何やってるか、お前自身が全て見て、勉強しろ」
今思えば、こんな事を指示して頂ける先輩に出会えて、ただただ感謝である。

とはいえ、僕が関わるミュージシャンの地方での公演や学祭などはバイトの数も足りず、PAの仕込みを朝から手伝う事もあった。

僕はトランポの8トン車からPA機器を運び出し、マイクスタンドを立て、マルチの引き延ばしを手伝い、伝説のヒビノのスピーカーシステムをスタッフと共に組んだ。

特に10inchのスピーカー8発を組み込んだ「BINCO」は仲間内では「八つ目」と呼ばれ、その恐ろしい重さが脅威だったが、抜けの良さと中域の安定度は抜群で多くのエンジニアから愛された名機だ。

PAスピーカーを組み上げるときは、出来るだけ多くのバイトを周りに配置し、組み上げチーフが大声で宣言する。
「いいか、持ち上げる途中でどんなに重くても、絶対に逃げるな、手を離すな。誰かが死ぬぞ!」
それを聞いたバイト連中は、気を引き締め、スピーカーを持ち上げ、その組み上げに全力を尽くすのだ。

そんな地方や学園祭の日々の中、忘れられないエピソードがある。
とある学祭、体育館だったかホールだったかは忘れたが、セッティング・サウンドチェックも終わり、リハーサルも順調に済み、開場開演を待つばかり。

僕は舞台袖でミュージシャン達と待機していたので終演後、聞いた話だ。

開演時間の5分くらい前には、客席内のPA席にエンジニアが移動する。
すると会場警備の学生がニコニコしながらPA席近辺に立っている。

学生「あ、なんか適当に上がっていたので、下げときましたー!」

見ると、リハで音決めした卓のフェーダーが全て下まで下がっている。
エンジニア「あ・・。あ、どうも・・ありがとう・・・」ort

呆然としながら開演までの数分間に、記憶をたどって24Chのフェーダーを元に戻し、一曲目で必死にバランスを取り直したそうだ。

その後、ツアーの備品にコンソールを覆う大きさの布が追加された笑。

*写真はPA席のイメージ。本文とは関係ありません。卓はSoundcraftかな?

ともあれ、その当時、各会場に合わせて上下左右に組み上げられたヒビノオリジナルエンクロージャーの山は見るからに重厚で、音が出る前からその4-Wayの威容の姿に心がワクワクした。

*ボブ・ディラン初来日時の武道館のヒビノPAスピーカー群。この迫力!

そのスピーカー裏には、チャンネルディバイダーの名機とAMCRONのパワーアンプが何台もスタックされた、人の背丈ほどもあるラックが陣取っている。

誰も客席に居ない中野サンプラザホール。

セッティングの終わったPAシステムから、最初にサウンドチェックで流れる大音量の音楽に、僕は常に感動したものだ。

今は効率化された小型のスピーカーがフライングされて、バランスの取れた音を客席に提供する。

もはや倍以上の電気容量を必要とする、オールアナログのPAシステムはサンプラや新宿厚生年金や渋谷公会堂で鳴る事は無いのだろう。
あ、ホール自体も無くなっていくのか。

皆さんにPAサウンドの重要な歴史である、その当時のアナログの輝く中域と腹を打つ重低音を一度は聴いて欲しかった。

この項終わり。

参考サイト「ヒビノ社史」1974─1983

いいなと思ったら応援しよう!