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竹内まりや『Miss M』LAレコーディングこぼれ話。

 2018年11月、竹内まりやデヴュー40周年記念として、RCA時代のアルバム5作品が随時リマスター+ボーナストラック付きでのCDリイシューがスタートしました。以前からその時期のリマスター盤はファンの間で要望が多かったのですが、今回ようやく実現したわけです。

中でも4thアルバム『Miss M』は当時絶頂期のTOTO/エアプレイメンバーでのLA録音曲が5曲収められており、リマスター盤を望む声が特に多く上がっていました。そして2019年2月27日に『Miss M』のリイシュー盤が発売されたのです。

 そんなタイミングなので、当時『Miss M』レコーディングに立ち会わせてもらった自分が記録と記憶によるLAレコーディングの(大した事のない)こぼれ話を、以前FB記事にした内容から抜粋、加筆修正して取りまとめてみます。なにぶん古い話なので記憶違いもあるかと思いますが、関係者の皆様には平にご容赦下さい。

『Miss M』のオリジナルは1980年12月5日にアナログLP盤としてリリースされています。ちなみに同日6枚目のシングルとしてアルバムからのカット「SWEETEST MUSIC」も発売されましたが、オリコンチャート圏外でした。

本アルバムは前半5曲(LPA面)がLA録音。後半(B面)に収められている楽曲が東京での録音で、これはLAレコーディングより先に1980年6月頃から順次録音しています。B面1曲目に収録された「二人のバカンス」は1980年7/21に5thシングルとして発売されています。

ロスアンゼルス録音までの個人的経緯

 1980年の年明け、竹内まりやは事情により事務所を移籍しました。デビュー後すぐからまりやの見習いアシスタントだったりライブやコンサート現場に関わっていた僕は、一時違う制作会社に居たのですが、周り回って80年8月から新体制の事務所に移って現場職を続ける事になったのです。

入社早々、このLA録音の話を聞いた僕は、行ける立場ではないにも関わらず同行する事を熱望しました。
だって当時のAOR全盛時に最も売れっ子で、全米のみならず世界中での数々のヒット作に貢献し、まさに脂の乗りきっているプロデューサー、アレンジャー、ミュージシャンが勢揃いで参加するレコーディングですよ。

デイヴィッド・フォスター、ジェイ・グレイドンの二人がエアプレイとして制作したオンリーワンアルバム『ロマンティック』がリリースされたばかりで毎日のように聴き込んでいたというのも、同行熱望に拍車を掛けました。

 予定されていたレコーディングメンバーは、エアプレイの二人の他にジェフ・ポーカロ、スティーヴ・ルカサー、デヴィッド・ハンゲイトら「TOTO」のメンバーです。現地に行った結果、ビル・チャンプリン、トム・ケリーらのコーラス隊や、ブラス、ストリングスアレンジャーとしてグレッグ・マティソンなど豪華なメンバーが入れ替わり立ち代わりで参加する事になりました。

*リズム録り当日の記念写真。写真左からマーク・ジョーダン、デヴィッド・ハンゲイト、まりや、デヴィッド・フォスター、ジェイ・グレインドン、スティーヴ・ルカサー、ジェフ・ポーカロ、右端の方は誰だっけな?

 当時、家でも飲み屋でもウォークマンでも毎日毎日、自分が聴き込んでいる憧れの凄腕超一流ミュージシャンのプレイが生で、それもレコーディングで見られるんですよ。それを見逃すという選択肢は僕の中にはありませんでした笑。
とにかく、その時はただのコンサート関連のマネージャーだった僕(特にレコーディングでの仕事は無い)は、その録音が本決まりになった時に「あ、それ僕も行きます、いえ絶対行かせて下さい。とにかく行きます、何があっても行きます」と事務所の上司にぶちあげて呆れられました。おかげで渡航費宿泊費は給料から全額引くのを条件で、ついていくのを許されたのです。

 1980年9/14に事務所の専務とLAの空港に降り立った僕は、海外渡航は生まれて初めてでした。空港内で専務と1時間近くはぐれたり、なんとか宿泊予定のホテルに着いたものの、先行スタッフの手違いで部屋が無いと言われ、仕方なく上司の部屋にエキストラベッドで潜り込んだり、到着した日から波乱万丈でした。

リズム録り 1980年9月15日

 今回のレコーディングスタジオはLA中心部から北に位置するグレンデールにある「Monterey Studios」(モンタレースタジオ)
実は不思議な事に竹内まりや手書きによる歌詞カード及びクレジットには、LAでのスタジオ名が表記されてなかったのです。後年あのスタジオって何て名前でしたっけ?って話になり、ディレクターの宮田氏の日記が見つかりスタジオ名が判明しました。ちなみに当時スタジオオーナーの故Jack Daughety氏はカーペンターズ初期のアルバムのプロデューサーの方だったそうです。

 初日のリズム録りレコーディングは16時から開始の予定でした。早めにLA郊外のスタジオに着いた日本側スタッフは、スタジオスタッフの準備を眺めつつ、メンバー到着を待っていました。

*Monterey Studiosの正面入り口。立派ですよね。

時間前には一人また一人と憧れのミュージシャン達がやってきます。僕はもうワクテカです笑。「わ、グレイドンだ!わ、デビフォスだ!わ、ハンゲイトだ!」(心の声)また楽器のクルーたちも機材を運んで続々到着します。

*これはルカサーのアンプとエフェクターかな?

*スタジオの入り口。右にハンゲイトのアンプケースがあります。

 セッティングが済んだ方から順にサウンドチェックが始まります。嬉しかったのがデヴィッド・フォスターのサウンドチェック。いきなりあのエアプレイの名曲「Nothin' You Can Do About It」のAメロピアノフレーズを弾きだすんです。横で聞いてた僕はその音色を一生忘れません。

*デビフォスの背中越しにジェフのドラムセット。

*デビフォスは常に紳士然で淡々としていました。

 で、開始時間前にレコーディングメンバーは全て到着し準備を進めているのになぜかジェフ・ポーカロだけ来ないんです。
スタジオにはジェフ専属ローディがセッティングしたドラムセットが完璧に組まれ、マイキングも終了しています。

*ジェフのドラムセット正面とTOTOのロゴ入りドラムケース群。

 予定時間30分経過、業を煮やした日本のディレクターがセッションリーダーであるジェイ・グレイドンに「ちゃんとジェフは来るのか?」と尋ねると、ジェイは一言「ノープロブレム!」(笑)と、その直後アシスタントに連れられてようやくジェフが登場しました。するとミュージシャン全員、拍手でお出迎えとなります笑。

ジェフはなんだかだ言い訳していましたが、チーフエンジニアの「ジェフ、サウンドチェックだ!」の声でようやくスタジオへ入って行きます。
僕もどさくさでついていき、ジェフの後ろでカメラを抱えます。

ジェフに「えくすきゅーずみー、ふぉと、おーけー?」ジェフ「ノープロブレム」笑。
そのままドラム椅子に座りスティックを取り上げ、ドラムセットには一切触らず、いきなり8ビートで跳ね目のリズムを全力で叩き出します。
もうね、その迫力に心が震えますよ。目の前50cmであのジェフ・ポーカロがドラム叩いてるんですよ!ジェフ・シャッフルやってるんですよ!感動の域を超えてますよ笑。

*よくこんな写真撮らして貰えましたよね笑。

 ジェフのサウンドチェックも無事終わり、いよいよリズム録りがスタートします。ドラム、ベース、キーボード、ギター二人の計5人で「せーの」で録音する昔ながらのレコーディング開始です。

*上の写真がスタジオ内右側、デビフォスのグランドピアノとフェンダーローズがセットされ、左にドラムセット。下の写真は、その左横にルカサー、ハンゲイト、グレイドンと並んでいます。

 その日、一日で5曲(実質4曲半だそうです)録ったのですが、大体1テイクか2テイク目でOKが出ます。1曲録り終わる毎に副調でプレイバックを聴くのですが、曲中でフィルインなどジェフのマジックなプレイが出るたびに、またもミュージシャン全員で大拍手です。
とにかくジェフの演奏が良ければそのテイクはOKなのです笑。

*ジェフの譜面の理解力は凄かったですね。1テイク目からほぼ完璧です。

 ベースのデヴィッド・ハンゲイトは名手として知られていますし、個人的に大好きなベーシストです。物静かな方でしたが、演奏は完璧なんてもんでは無いです。彼だけは録り直しが一度も無かったと記憶しています。

*ハンゲイトの使用したアンペグの真空管アンプ。プレイと相まって本当に良い音でした。ベースはヤマハでしたね。

 スティーヴ・ルカサーは僕と同い年の当時23歳。とはいえすでに若手ナンバーワンの名ギタリストと認知されてましたが、さすがにこの現場では先輩方の前で大人しかったですね笑。

*下の写真は当時のルカサーのエフェクターボード。懐かしいシリーズですかね笑。

 このレコーディングはデヴィッド・フォスターとジェイ・グレインドンの二人がアレンジ・サウンドプロデュースと認識されていますが、僕が感じた、このセッションの実質的リーダーがジェイ・グレイドンでした。

前年1979年にはデイヴィッド・フォスター、ビル・チャンプリンと共作したEW&Fの「After The Love Has Gone」でグラミー賞の最優秀R&B楽曲賞を受賞している、超売れっ子ミュージシャンのはずのジェイは、そんな事などどこ吹く風という感じの、気さくで、ジョークを連発するハッピーなあんちゃんなんです笑。
何かちょっとした問題があっても「ノープロブレム!」を連発し、これには日本のスタッフも苦笑いするしかない、そんなREC現場だったのです。

とはいえジェイは当時押しも押されぬプロ中のプロであり、彼の仕事は素晴らしくきっちりしているのです。
リズム録りの最終OKはもちろんジェイであり、その日いるメンバーで必要な作業を効率よく決めて指示するのも当然ジェイでした。

リズム録りは3時間足らずで無事終了しました。なんだかあっという間の夢のような時間でしたね。
その後、AGのダビングをジェイ・グレインドンがルカサーに弾かせるんですが、バラードでアルペジオのプレイなので音の粒だちや、コードの押さえ方まで細かく指示します。あのルカサーも借りてきた猫状態で、言われたとおりストイックに弾き続けていました。ルカサーの登場はここまで。

*ルカサーがAGのチューニングをする貴重な写真。でもないか笑。

9/15のセッションが終わり、その日の音源のラフMIXをエンジニアの方が手早くバランス取って作って頂きました。数本作ってくれたうちの1本を事務所用と言って僕が着服したんです笑。そのカセットテープの音源は本当に素晴らしく、僕は日本に帰ってもしばらくヘビロテしていたものです。

*エンジニアとアシスタントの方々。録り音もめちゃ良かったし、20分くらいでバランス取ってくれたラフMIXはカリフォルニアの音がしていました。

楽器ダビングとジャケット撮影 1980年9月16日

翌9/16はあの著名写真家ノーマンシーフのスタジオとハリウッド・ウォーク・オブ・フェームでジャケット撮影からのスタートでした。カメラマンはノーマン・シーフのお弟子さん。良い人でした。

*この「Sweetest Music」のジャケ写を撮影しました。僕は風を送るのを手伝いましたよ笑。

*ロケでの撮影の模様。下の写真のバスは撮影チームのロケバス。写っているのは若き筆者。この写真は多分まりやさんが撮ってくれたものです笑。

 撮影終了後、まりやたちとスタジオに向かいました。すでにMonterey Studiosではダビング作業が始まっていました。

残念ながらデヴィッド・フォスターのダビングは見ることが出来なかったのですが、着いたころにはジェイ・グレインドンのギターダビングが始まる時間でした。

*コントロールルーム(コンソールがある方)でのジェイとデビフォス。ああエアプレイの二人なんだとまたも感激・・。

*ジェイのギターダビング時の写真。このセットであの数々の名ソロが生まれたんだと思うと再び感動‥笑。

 ジェイ・グレイドンの真骨頂は、もう皆様ご存じ神懸かり的ギターソロですよね。「Miss M」の一曲目、「Sweetest Music」間奏のギターソロは今聴いても、鳥肌もののプレイでジェイの名演のひとつだと思います。このギターソロの録音はコントロールルームで演奏され、アンプのマイク録りの音とラインの音を混ぜて録音されたようです。
僕はジェイの1m後ろでその収録の一部始終を聴いていました。羨ましいでしょ笑。
で、この神懸りソロのOKテイクをパンチイン数回で録り終わった後、ジェイがエンジニアに別チャンを用意しろと言いだしました。なんとソロ後半にハモリ(弾いたギターソロに三度上とかのハーモニーパートを弾いて重ねて録音し、場合によってL・Rに定位させ、ステレオの音像に厚みを出すためジェイが当時行っていたお得意の手法。)を録ろうと始めだしたんです。しかし何回かトライしたのですが、どうしてもソロ最後の早弾きフレーズのハモリ部分が上手くハマらない。しまいにジェイ本人が「これは無理だ!」と断念。つまりジェイお得意のハモリも弾けないフレーズだった訳ですね笑。

 そんなダビング作業の合間でジェイのエフェクターやらミニアンプやらに興味があった僕はまりやさんを通訳にして、ジェイの並べた機材を「これはなんだ?」と聞きまくったんです。最初はにこやかに教えてくれたのですが、あまりにしつこいので、「おまえはギタリストか?」と聞き返されました。僕が「違う」と答えると「じゃおまえには判らないものだ」と説明拒否されました笑。若いって怖いもの知らずなんです。

*これがジェイの謎の機材。電圧調整器とかなのでしょうか?

コーラスダビングなど 1980年9月17日

 翌9/17はコーラスチームが三組登場し、ダビングする日程でした。短い期間でよくコーディネイトしてくれましたよね。レコーディングコーディネーターのカーメンはミュージシャンだけでなく食事の手配や、買い物など本当によく働いていました。

 この日の出色のコーラスチームはビル・チャンプリンのチームです。

*ビルとトム・ケリーともう一方(名前忘れました)のチームがミーティングしています。三人とも真面目でしたね。彼らのコーラスは「Sweetest Music」で聴くことが出来ます。

 その他女性三人のコーラス隊やアラン・オディも来て素晴らしいコーラスパートが次々と録られて行きました。「Every Night」や「Heart To Heart」ですかね。それ以外に、この日にストリングスのダビングをやった気がします・・。写真がないのが残念です。

 9/18はレコーディングのOFF日でした。僕は一人で近隣を散策したのですが、LAはあまりに広くて疲れてホテルで寝てた気がします笑。

*カリフォルニアの(雲の多い)青い空・・笑。下の写真はチャイニーズシアターの前で。

ホーンセクション及びコーラスダビング~打ち上げ 1980年9月19日

レコーディング最終日の9/19はグレッグ・マティソンによるホーンセクションダビングでした。なぜかこの時の写真も無くて残念です。

ホーンのダビング後、ジェイとデヴィッド・フォスター、ビル・チャンプリンのグラミー受賞の仲良し三人組が何やら話し合っています。ジェイの指示で、とある曲に三人でコーラスを録り初めたんです。ただ何回かトライしたんですがこれが意外と難しいらしく、ようやくなんとか上手くできたパートが完成しました。ジェイは即座にこれをコピーしてポン出しで2コーラス目以降に貼り付ける様にエンジニアに指示します笑。それが「Secret Love」のブレイクでのコーラスなんです。この曲にはビルの素晴らしいカウンターコーラスなど様々なアイデアが詰まっている名曲ですね。マーク・ジョーダンとジェイ・デビフォスの共作曲です。個人的にはこのアルバムで一番好きな曲です。

*どう歌うか煮詰まってる所に、まりやさんが茶々を入れます笑。

 全レコーディング行程終了後、その日の夜、関係者が集まっての打ち上げが、なぜかLAのモロッコ料理屋で行われました。

ジェイ・グレインドン、デヴィッド・フォスター、ビル・チャンプリンの仲良し三人組は奥様同伴で揃って参加です。美味しい料理とお酒でみんな酔っぱらって来た頃・・。
ジェイは当時LAでTV放映されて大人気だった「将軍」という日本を舞台にした歴史ドラマのファンだったらしんです。で、どこまでもひょうきんでサービス精神旺盛な彼はその日本語のセリフの真似をいきなり始めだしたんです笑。
もちろん日本語など喋れない彼は雰囲気でそれらしく「うそ日本語」で怒鳴っているだけなんですが、これが日本勢に大受け。

ジェイがいつまでもやっていて仕方ないので、対抗上僕もタモリさんには届かないまでも、酔っぱらった勢いで「うそ英語」で適当に身振り手振り加えくっちゃべったら、これが米人勢に大受け。とりあえず日本代表としてイーブンにはしておきましたよ笑。

またビル・チャンプリンは「おれ、もうすぐシカゴに入るんだぜ、凄いだろ?もうすぐ日本にもいくぜ!」とまだオフレコ話を隣で喋ってくれました。ビルチャンもホントに良い人でした。この夜は本当に思い出深い、楽しい打ち上げとなりました。これまた写真がないのが悔やまれます。

翌9/20僕たちはLAで録った貴重なマルチテープを持って、帰国の途に就きました。その後東京でヴォーカルダビングやコーラスなどを足し、益本さんの素晴らしいMIXで10月下旬に『Miss M』は完成したのです。


*おまけの写真です。車はジェイ・グレインドンの愛車。ナンバープレートが「AIRPLA」となってます。カリフォルニアでは好きなアルファベットをナンバーに出来るようなんですが「Y」まで入らなかったんですね笑。

 さて長々とLAレコーディングのこぼれ話を書いてきました。こんな個人的な内容が多い駄文を最後まで読んで頂きありがとうございます。少しでも80年初頭のレコーディングの雰囲気が伝わったとすれば幸いです。

 また今回リイシューされた竹内まりやのRCAアルバムにはボーナストラックとして1981年8月25日 中野サンプラザ「MARIYA POPPING TOUR」音源、及び1981年12月22日 厚生年金ホール 「SO LONG LIVE」音源が収録されています。当時ライブアルバムを出すという計画があったのですが、諸事情により取りやめになりました。ただライブ収録はされていたので、今回その音源をそれぞれ足すことになったようですね。とはいえご本人が了承されているかどうかは不明ですが・・笑。

記録によると81年当時のツアーメンバーは、Dr野口明彦、Bass後藤チビ太、G青山徹、Key武部聡志、西本明、SAX古村敏比古となっています。コーラスはバンドメンバーがやっていました。

まだ僕はこのボーナストラック音源は聴いていませんが、もちろん当時舞台袖でライブは見ていましたよ笑。

この稿終わり。


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