「音楽no無駄na昔話」 vol.5
<ITバブル期前後の事業あれこれ失敗談>
1990年代末期、世の中はインターネット網の拡大とスピード化、留まる事のない技術革新が進む、まさに「ドッグ・イヤー」の真っただ中にあった。
新たな産業として発展の一途をたどっている「IT業界」は、異常な盛り上がりを見せており、業界は新規事業とコンテンツを常に欲しがっていた。
いわゆるITバブルの時期であった。
その頃、音楽産業は袋小路に差し掛かっており、CDの売り上げ低下も打開するすべもなく、仕事は減り続け、誰もが危機感を持ち始めていた。
1999年。
そんな状況の中、僕は旧態依然とした音楽業界を足蹴にするかのように、新規事業開拓に走り、何人かの仲間とITビジネスの新会社を立ち上げた。
ノストラダムスの予言を乗り越え(笑)、周りでも「猫も杓子も、IT起業」、がごく普通に起きていた。
僕らは「ITとエンタテイメントの融合を図る」という理念のもと、他企業からの資本提供を受けず、基本は自力でのベンチャー企業としてのスタートだった。
仲間数人で資本金をポケットマネーから出し合い、有限会社として最初の登記をした。事務所は渋谷の知り合いのオフィスを間借りした。
発足時、僕は本当に嫌だったし辞退したのだが適任者がおらず、みんな尻込みしたので、しぶしぶ5社目くらいの代表取締役社長に就任した。
出来れば社長は誰かに任せ、企画屋に徹したかった。
当初、みんなで盛り上がり、会社まで作ってまず始めようと決めたビジネスモデルがあった。
それは「ライブハウスでの音楽ライブ映像を収録・編集して、インターネットでストリーミング視聴」のサービスを提供するというもの。
まだyoutubeなど、どこにも存在しない時期であった。
下手をすると世界初のサービス内容であったかも知れない。
もちろん日本では初めての事業形態である。
アマチュアからプロまで、夜ごと都内近郊で行われる素晴らしいライブを収録し、全国の、いや世界の音楽ファンにインターネットでライブ映像を届け、バンド・ミュージシャンの認知に繋げ、音楽業界の活性化を目指すという、かなり壮大な「夢」を実現しようとしていたのだ。
知り合いのツテをたどって、幾つかのIT系企業と接触し、構想を話すとかなりの反応があった。
まず、国内最大手のインターネットプロバイダーの新規企画事業部が、継続してコンテンツを供給できるならと手を挙げてくれ、その企業からサーバー提供を受けると言う形で協業を始めた。
映像・音声と言うコンテンツを格納し、同時アクセスに耐えられる仕様のサイトにするには、当時でもそれなりに巨大なサーバー容量とプログラミング構築及び保守調整を必要とした。
協業したプロバイダーも相当の資本投下をしてくれた。
僕を含めた当社のスタッフは、それまでのコネクションを生かし、ミュージシャンや会場と交渉し、ライブハウスに通い、2カメ、3カメで映像を収録し、編集し、圧縮変換し、サーバーにアップした。
エンコードは連日、深夜まで掛けないと間に合わなかった。
収録メディアはまだminiDVが主流の時代だ。
ミュージシャンやバンドとは半独占で、映像提供契約を結んだ。
当然、著作権使用許諾料も支払った。
資本金は映像機材等の購入やライブ収録スタッフの人件費で、あっという間に消え去っていった。
そのライブ視聴サービスの収益モデルは、初期無料、継続視聴者は月額課金の会員制とした。
その頃はまだ広告モデルが信頼性と安定収益が見込まれてない時期だったのだ。
サービスイン後、即座にIT業界内ではそこそこの話題となった。
オリジナルのライブ映像コンテンツが、毎週増えていく視聴サービスなど、まず無かった時代である。
youtubeやSNSが当たり前になっている今の若い人は、え?と思うかも知れないが、その時期には時代を先取りした、画期的なサービスではあったと思う。
各種メディアにも取り上げられ、当時最強の雑誌メディアである週刊アスキーのインタヴューも受けた。
とにかく様々な企業から提携話や、Yahoo初めとする大手ネットサイトからコンテンツ利用の要請が来た。
スタッフの頑張りで、ライブ映像のコンテンツ数も最終的には300アイテムを超え、視聴数も上がって行った。
また幾つかのベンチャーキャピタルからも資本参加の打診があった。
だが上場を目的としている訳では無かったし、余分な荷物を背負いたくなかったので、うやむやにしてしまった。
しかし時代はまだブロードバンド草創期である。
インターネットの回線環境はISDNやらのナローバンドがほとんどで、国内の光ケーブルの普及率も数%であった。
そして当時の回線スピードの遅さ、安定度の悪さが災いして、サービス契約会員数も予想以下であり、半年も経たず収支バランスが厳しくなって来た。
WEBページ制作代行や、サイト記事の取材代行なども細々とやっていたが、収益は人件費で消えていった。
当初モデルとは別の、会社に収益をもたらす新たなビジネスモデルが必要であった。
2000年、とある上場ソフトウエア系IT企業から、エンタメコンテンツ部門を全面的に任せる、十分な年間予算も用意するという話が来て、我々は色めき立った。
その企業の社長からは「今後、お金の心配は一切しなくていい」とまで言われた。
そして社長含むその企業の役員及び担当者と、何度も様々なエンタメモデルの事業化を検討し、承認を得て、商品化直前のコンテンツもあった。
多少の準備金も提供してもらい、広めの事務所に移り、さらなる機材や下請けチームも準備した。
しかしITバブル崩壊の兆しの中、結果として役員会で株主含む役員の反対にあい、エンタメ部門そのものが立ち消えとなった。
借入金は増えていく一方だった。
役員報酬の計上はしたのだが、結局その後も、僕は会社から一円も給料を受け取らなかった。
会社が生き延びるために、何らかのアイデアが必要だった。
同じく、2000年、「フリーチケット」と言う、一つのアイデアを思い付いた。
それまでも事業の一つに、ポータルサイトでコンサート等のチケット代行販売と、購入者に郵送するというサービスを行っていた。
その頃はリアルなチケットは、電話予約してもターミナル駅等のチケットビューローで購入するのが当たり前の時代であった。
郵送サービスもあったが相応の手数料が取られる。ローチケもまださほど浸透していなかった。
そして世はフリーペーパー全盛の時期である。街角に何種類もの無料の冊子が置かれていたり、アルバイトが駅前で配布していたりした。
そのフリーペーパーに異なるバーコードが入ったチケット形態を封入、切り取り線が入ったページとなっていると想像してほしい。
ユーザーはそのチケットを切り取り、コンサートやイベントのサイトから任意のチケットを購入し、固有のバーコードナンバーを打ち込めば、実際のチケット内容と紐づけされ、当日会場でバーコード認証され入場できるという仕組みである。
つまりチケット購入ユーザーは、街角にあるフリーペーパーを一冊持っていれば、いつでもリアルなチケットが入手可能になるというアイデアであった。
この企画に乗ってくる企業もいくつかあり、ビジネスモデル特許も取得した。
しかし検証した結果、当時二次元のバーコード大量取得と認証システムに、収益を超える負担が掛かりすぎるという事が判明した。
またも、サービス化は立ち消えとなった。
そんな状況を打開するために、同時期タイミング良く、次のネタが出てきた。
誰もが知る、とあるミリオンヒットを持つ著名な元アイドル歌手の初インディーズシングルを、「ネット配信」で先行独占販売するという話である。
その為に、わざわざプロバイダ企業内に音楽レーベルを立ち上げた。
単発契約だったが代表原盤も持ち、後発のCD販売を一手に引き受け、大手卸業者と全国流通も手掛けた。
評判も悪くなくそこそこ売れたが、勢いに乗ってその歌手は翌年にはメジャーレコード会社とさっさと契約してしまった。
それでも諦めの悪い僕は2001年、当初協業したプロバイダの親会社である日本屈指の大手電機会社に、ある企画を持ち上げた。
その当時、国内のレコーディングスタジオは、まだ3348初めとするデジタルマルチレコーダーがスタンダードだった。
レコード会社や原盤制作会社のスタッフは、重たいデジタルマルチテープをスタジオに移動する業務が頻繁に行われていた。
そこで、その作業を軽減し、効率化を図り音楽制作をサポートするというビジネスモデルを持ちかけたのである。
とりあえず都内各スタジオにクローズドの光ケーブルネットワークを繋ぎ、劣化しない音質でデータを転送するシステムを提供するという企画内容だった。
その当時は、一般ユーザーが大量のデータを転送するために、そこまでの回線スピードが必要とは思われてなかった時代であった。
どこよりも早くネットワークを実装できれば、その分野でオンリーワンとなり、音楽データ転送システムを丸抱えできるというメリットが考えられたのだ。
Pro Tools HDがリリース前で、96kHz/24ビットに対応する直前である。
音楽業界からのニーズは当然あり、各スタジオや音楽制作会社や著名ミュージシャンも、この構想に乗り気だった。
大手電機企業の担当者もやる気満々で、丸の内の本社や川崎の研究所に何度も足を運びミーティングを重ねた。
しかし、ある日突然、人事異動で担当者が他部署に移る事になり、推進力を失った企画は一部上場企業の会議で撥ねられ、またしても企画は立ち消えとなった。
今ならばマルチ音源のデータ転送などは、もはや個人レベルで日常と化しているネット環境である。
IT技術や回線スピードの進歩は想像を絶するほど早かった。
我々の、いや僕のITビジネスのアイデアやイメージは、とっくに追い越されていたのだ。
人類の英知はその当時も、IT技術に集約されていた。
モバイル併せて、最も伸びしろのある産業だったからである。
つまり僕らの出来る事、やりたい事と、舞い込んでくるIT業務とは、内容が乖離して行き、技術的にも理解を超えるアイテムがますます増えていったのだ。
途方に暮れた僕らは仕方なくいくつかのIT系事業から撤退し、古来からの音楽ビジネスモデルに回帰した。
しかし音楽マーケットは縮小の一途を辿っており、元からの会社も抜本的構造変化を必要とされていた。
2002年後半の事である。
そして翌年、「iTunes」のヴァージョン4により、Windows対応版がリリースされた。
その頃からiPodを持つ若者を、街で多く見かけるようになって来た。
国内の大手配信サービスなど音楽系のITビジネスモデルは、レコード会社を含み根幹を揺るがされ、現在に続くapple社の製品とITサービスの大躍進が開始されたのだ。
対決姿勢を出したSONYの牙城も崩れ去ろうとしていた。
ネットバブル期前後、IT業界が風雲急を告げる時代。
僕は神速の如き技術革新の足の速さを目の当たりにし、業界に深く関わり、経済的困窮と共にその「怖さ」を思い知った3年間であった。
この稿終わり