10 レイク・ディストリクト 二人の過去④
「面影を追い続ける男」 10 レイク・ディストリクト ー二人の過去④ー
部屋に戻っても何もする気が起こらずにベッドに腰を下ろすと、まだ湖の上にいるように体が揺れた。
このまま眠りにつきたい気分と、この余韻に浸りたい気持ちが交互に私を揺さぶり、衝動的に部屋を飛び出した。気づいたら司の部屋をノックしていた。
私は何を言うつもりなのだろう。
思考力が欠けた頭で、自然に話しかける言葉を探していた。
何度かノックを繰り返したが彼は出て来なかったので、一人で階下に降りた。
ホテルの主人から彼がついさっき出かけたことを聞き、私は思いつきで何処か音楽を聴ける店はないかと訊ねた。
主人は湖の道沿いのジャズ・バーの場所を教えてくれたので、司が戻ったらそこに来てほしいと伝言を頼んだ。
夜一人で出歩いたのは、ロンドンでミュージカルを観に行った時以来だ。
私は本当はとても臆病者なのだ。劇場だって演目より、帰りのタクシーに乗りやすい場所で選んだくらいだ。
このまま死ぬのも悪くないだなんて思っているくせに、行動はそれに反していつも安全なものを求めている。
そんな自分を捨ててしまいたくて旅に出たけど、やはり私は私でしかない。
その店へのたった数百メートルが、大きな冒険みたいで怖かった。
多分、私は勘違いをしているのだろう。
一人でこうして旅が出来ることを、この先一人でも生きていけるということに結び付けて考えている。
でも、一人でいる時間の積み重ねが、いつか自分をそんな生き方に向かわせていくかもしれない。
*
ジャズ・バーはログハウスの地下にあった。
一階は湖水地方を紹介するギャラリーだった。入口に大きな地図が貼ってあり、隣のコーナーでは、空から映した湖の映像が流れ、かなりの数の湖が存在することを知る。
羊毛の刈り方のパネルや、風刺のきいた絵葉書を眺めながら、ロンドンを離れてから十日ほど経ったと、ぼんやり数えてみた。
ジャズ・バーに入ろうとすると、女一人の客に驚かれたが、後から友人が来ると言って奥のテーブルに案内された。
演奏していたのはドラムス・ベース・ピアノのトリオだった。
私は温まるためにホットウィスキーを作ってもらい、また湖に浮かぶ舟のことを思い返していた。
二杯目を頼んだところで、司が近付いてきた。
「見かけによらず結構飲めるんだね。あ、同じものを」
私は酔っていたのか、ウェイターが司に「今度は、何にしますか」と言ったような気がした。
静かなメロディーラインなのに、力強く響くピアノの音がとてもいい。
「この曲知ってる?」
司は前を向いたまま私に訊ねた。
「知らない」
「ビル・エヴァンスがアレンジした『We will meet again』だ。死んだ兄に捧げた曲なんだ。天国でまた逢おうって」
だからメランコリックなのか。そう聴いたせいか、目を閉じると光が空に向かって伸びていく情景が浮かんだ。レンブラントの絵のような。
隣の男女四人が乾杯する音で思考が遮られた。大きな声の会話から、向かいの二人が婚約したらしいことが伝わってきた。
日本で、あの人もきっと今頃。
不安が心を覆ってしまう前に、急いで違うことを考えようとして司の方を見た私は、はっとしてしまった。
彼は私といることを忘れて、隣の幸せそうな二人を無防備に見つめていた。
眉根を寄せたせつないその横顔は、誰かを思い詰める顔だった。
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