8 ストラトフォード・アポン・エイヴォン 天使①
「面影を追い続ける男」 8 ストラトフォード・アポン・エイヴォン ー天使①ー
イギリスには、通称B&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)やカントリー・インといった民宿がある。ロンドンから離れ田舎へ行くほど、安くて小綺麗な宿が増えてくる。
ティンタジェルのパブで泊まって以来、また車で寝る日々を続けていた。体がゆっくり足を伸ばして眠れる場所を求めていた。
ストラトフォード・アポン・エイヴォンはシェイクスピア生誕の地として有名なため、観光用の宿が山ほどあった。街の中心に入る手前で、車をゆっくり走らせながら適当な場所を探し始める。
この地方特有のチューダー朝の家が連なる通り。
煉瓦の屋根を持つ家々の窓にはたくさんの花が飾ってあり、まるで春が来たように賑やかだった。
昨日まで冷たい風の吹く丘にやっと立っているような草葺の家ばかり見て来たので、どうも作り物じみて生活の匂いが感じられなかった。
だが、一つ一つの家をよく比べてみると、白い土壁に黒いティンバーラインが入った模様は、同じように見えてそれぞれデザインが違っていた。周りに調和しながら、少しだけ自分の主張を投げかけているように。
*
グローブ・ロードで最初に目についた「Vacancy(空き部屋あり)」の看板が出ている小さな家の前で車を止めた。
前庭で芝生の手入れをしている婦人に、今晩一人部屋が空いているか確認すると、彼女は色白の顔に感じのよい笑みを浮かべ、俺を二階の部屋に案内してくれた。
部屋は清潔で女性に似合う内装だったが、ここに決めると伝え、部屋と玄関の二つの鍵を預かった。ミセス・メージーは高い声で自己紹介したあと、共同バスルームの場所と明日の朝食の時間を教えてくれてから、楽しそうに階下に降りて行った。
一人取り残された部屋をぐるりと見まわしてみる。
クリーム色の壁紙、花の絵のついた鏡と洗面台、ふかふかの白いベッド、部屋に微かに漂う花の香りがくすぐったい。
壁に掛かっているいかついエジプト壁画のような絵画と俺だけが、ここに調和できずに戸惑っていた。いいさ、一晩だけだ。
*
カーテンを開けて窓の外を眺める。舗道にこちらに向かって歩いてくる女の子の姿が見えた。宿の玄関をちらりと見て、また来た道を戻って行った。
大きなリュックとそれを覆う黒いふわふわ揺れる髪に見覚えがあった。出窓を押し開け、体を乗り出して、ずっと後ろ姿が消えるまで見つめていた。
バースで見かけたあの子だ。チェロ弾きの演奏を熱心に聴いていた。
しばらくするとまた舞い戻って来て、宿の前でためらいながら考え込んでいた。彼女の視線は自然に俺の窓に向き、目が合った。
少女だと思っていた彼女は、近くで見ると大人の顔立ちをしていた。二十歳過ぎくらいかな。はじめて一人旅をしているような不安な表情をしていた。
少し面長な輪郭に、大きくて丸い子犬を思わせるような人懐こい瞳。小さくちょっととがった唇が、どこかあどけない。
彼女は俺を見てニコッと笑った。日本人同士かなという意味合いの、少し警戒を込めた笑顔だ。
「日本人《Are you Japanese》?」
気づいた時には思わず話しかけていた。彼女はどちらの言葉で答えるべきか迷いながら、小さく「イエス」とうなずいた。
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