6 バース 水の揺らめき①
「面影を追い続ける男」 6 バース ー水の揺らめき①ー
次の土地に着いて、ここまで連れて来た青年に別れを告げた。
まずは誰も知らない場所から、再びはじめてみればいい。過ごしてみて合わなければ、また探せばいいだけだ。ゆっくりでいい。
その一歩を踏み出したなら、きっと何か見つけられる。
それは、自分にも言い聞かせた言葉だった。きっといつか、また会おう。
*
ここバースは観光地だが、英国の中でも特にエレガントな街並で、彼女のお気に入りの場所だった。
歩いてみると、目に映るひとつひとつのシーンが絵のフレームの中に収まるように、止まる。
大聖堂へ続く道は観光客でにぎわっていたが、通り沿いの店はほとんど休みだった。
ああ、今日は日曜日なのか。もう日付さえも俺は覚えていない。
水色のリボンで飾られたウィンドウを、外から覗いて嬉しそうに指さしながら笑い合う少女たち。
パンを齧りながら自転車で横を擦り抜けていく地元の少年たち。
こどもたちが伸び伸びと暮らしている街は、やはりいい。
人の住む街に帰って来た。
昨日までいた土地と距離はそう遠くもないのに、鏡の反対側にいるようだった。
あの重苦しさはここにはない。太陽も真上にある。
ほっと息がつける。あの青年を包むにもきっといいはずだ。そう願っている。
*
バースで一番人が集まる場所は、バース大聖堂《アビー》とローマン浴場跡《バス》に挟まれた広場だ。人も犬も鳩も皆、ここをめざしてやって来る。
広場にあるカフェは一日中賑わい、椅子が限りなく並び、カップの音が絶え間なく鳴っている。人はなぜ、こうして集うのか。何が人を呼び寄せるのか。
目印であるバース・アビーは美しいゴシック建築で、彼女はその外観を<ビスケットで作ったパイプオルガン>と称して愛していた。音を奏でるために息を潜めているのだと。
その斜め前のローマン・バスは、十八世紀にローマ人たちが建てた浴場跡で、一部が博物館になっている。
中にはプールのように大きなグレートバスが、今も暖かい水を満満とたたえていた。
周りには柱が一定間隔に並び、アーチ型の神殿が設えてある。
柱は二階のバルコニーを突き抜けて、彫像に生まれ変わる。
天井が取り払われ、二階を時計回りに歩いている人々が広場からでも見える。時を一歩ずつ刻むかのように。
ローマの女神ミネルヴァを讃えたと言われるこの神殿。
しかし、思考が止まったかのように緑の水を見つめる彫像たちから連想するのは、寧ろギリシャのメデューサだった。
美しさを誇る余り、神の嫉妬の怒りを買い、髪を蛇に変えられた女。
その目を見た者をすべて石に化してしまうという恐ろしく哀しい魔物。
もう誰も彼女に近付こうとしない。
そばにあるのは、かつて愛した者たちの変わり果てた姿だけ。
いつまでも続く孤独の渦。
今日の水面は、淡い緑色をした草原を思わせた。
静かな風のそよぎ。あたたかな予感。
未来にはいつしか平和も訪れる、きっと。
いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。