9 デビルズ・ブリッジ 雨の休息①
「面影を追い続ける男」 9 デビルズ・ブリッジ ー雨の休息①ー
次の日の朝は、テーブルいっぱいに広がった朝食を、睦月と向かい合って食べた。
彼女は、ロンドンで滞在したホテルではコンチネンタルしかなかったと言って、イングリッシュ・スタイルの朝食を幸せそうに味わっていた。トーストにミセス・メージー手作りのマーマレードをたっぷりのせて。
宿代の十七ポンドを払って、車までの短い距離を彼女の荷物を持って歩いた。それは意外にも山登りをするかのように重かった。これを担いで列車の旅をして来た彼女が、見かけよりも大きなエネルギーを持った人間に思えた。
「とても素敵な車ね。今にも壊れそうだけど」
そう笑いながら助手席に乗った彼女に、「次の目的地はチェスターだね」と確認する。
俺自身はその次の湖水地方に手懸かりを求めている。チェスターはそこへの通り道だ。
車を発進させて、「古い車だからカーナビなんて洒落たものはないんだ。ダッシュボードに地図が入ってる。チェスターなら、M5に乗れはいいはずだが」と隣を見ずに聞いた。
睦月は慣れない地図に困っているのか、なかなか返事をしなかった。何度もガサガサ音をさせた後、「少し遠回りしてもいい?」と言った。
「どこに?」
「デビルズ・ブリッジ」
「え?」
俺は車を止めて聞き返した。それは、ウェールズにあった。確かに『悪魔の橋』という場所がある。
「A44を行けばいいみたい。ね、行ってみたくない?」
少し遠回りどころではないが、確かに気になる地名だった。
*
ウェールズに入ると、町の標識が英語とウェールズ語の二層になる。
目的地はかなり西の方だった。出発した頃から雲行きが怪しかったが、一時間も経たないうちに本格的に雨が降り出した。
ワイパーを最高速にしても追いつかない激しい雨に変わってきた。とうとう全く視界が見えなくなり、途中で道端に車を止めた。
滝の真ん中に入ってしまったような雨の中で、しばらく体を休息させることにした。
「ね、ステレオ壊れてるの?」
「いや」
「じゃあ、何かかけてもいい?」
「ああ」
俺は彼女に言われる今まで、音がなかったことに気付きもしなかった。
カチリ。とても静かなはじまりの曲。ピアノの音に、ハスキーな男の声が溶けこむようになじんでいく。
Peter Gabriel「Here comes the flood」だ。
雨が全てを覆って、二人と音だけの小さな空間が浮かぶ。俺は驚くほど自分の中に凍み渡っていくメロディに、不覚にも涙がでそうになった。
自分がどんなに疲れて壊れかけていたかがわかった。曲が心の傷口を掬い出し、包み込み、癒していくようだった。
それまで沈黙していた彼の世界に、彼女が音をもって息を吹き込んだのだ。それはまるで、白黒だった世界に初めて色が塗られたかのように。