8 ストラトフォード・アポン・エイヴォン 天使③
「面影を追い続ける男」 8 ストラトフォード・アポン・エイヴォン ー天使③ー
教会はやけにこじんまりとしていて、すぐ奥にある墓に行き着いてしまった。
「私ね、大学で英文学を専攻していて、二年の時に演劇論の授業を取ったの。最初の学期は、毎週シェイクスピアを一冊読んでレポート書かされた。それは大変だったわ」
そう言いながら、彼女は恨めしそうに棺をコンコン叩いた。
「シェイクスピア好きなのか?」
「『ジュリアス・シーザー』は好きだったかな。でも世間の人が言う程、彼の素晴らしさがわからなかった」
「ここでご本人に謝らないといけないことがあるの。私『ヘンリー四世』を途中で読むのが苦痛になって、電車に置き去りにしちゃった。誰かが拾って読んでくれたならいいけど。ごめんなさい」
彼女は両手を合わせてしばらく祈っていた。
目を開けると、彼女は俺の目をじっと見て小声で話し出した。
「ロンドンで知り合った人と公園で少し話をした時にね、私がシェイクスピアを勉強したって言ったら、すごく奇妙な顔をするの。<日本では大学でそんなこと教えるの?>って。何か変だなと思ったら、私の発音が悪くてセックス・アピールと聞き間違えてみたい」
俺は思い切り大声で笑ってしまった。教会中の人が眉をひそめてこちらを向いた。自分が一番驚いたけれど。
「お客さん、不謹慎ですよ」
彼女はいたずらっぽい目をしてささやいた。こんな風に笑ったのは、本当にとても久し振りだった。
*
エイヴォン川にはフランスの国旗と同じ配色をした観光船が停泊していた。ちょうどランチタイムで、乗員は甲板で煙草をふかしてリラックスしている。
川沿いに芝が植えられ、木々の間に小径が走る公園があった。鮮やかな枯葉がカサカサ音を立て、ベンチに座って寛ぐ人々の足元を流れていく。季節も確実に流れているのだろう。
睦月はこういう場所でぼんやりしているのが好きだと言う。
彼女がパン屋に、俺がカフェスタンドに分担して昼食を買いに行くことにした。スタンドの横の食料品店のまえに行儀よく座って主人を待っている大きな犬がいた。クッキーのかけらをやると、じゃれついてきた。
背後でシャッターの音がして、いつのまにか戻って来ていた彼女が、熱心に俺と犬のショットを撮っている。
「犬を見る時の表情、人間に対するのと全然違うのね」
「そうかな。小さい頃から犬と切れたことがなかったから」
「私は一匹だけ。生涯、犬はその子だけなの」
ベンチに座って、彼女は大切そうにその犬の写真を見せてくれた。茶色の毛がふさふさしたコリー犬。横にいるのは彼女の家族だろうか。両親と兄貴かな。彼女は母親似だな。
「いつ死んだの?」
「どうして死んだってわかるの?」
「生きてる間は、写真なんて持ち歩かないだろう?」
自分で当てずっぽうに軽く言った言葉の意味を考えようとした時、睦月が突然、口に入れたパイの欠片を勢いよく投げた。
「まずい!」
そう言われて残った中身を見ると、それは牛の腎臓《キドニー》だった。イギリスではよく食べられるものだが、初めて口にする者にはショックが大きいかもしれない。
「ひどい。中身確かめたのに。ミートだって言うから」
悔しそうにしながら、投げてしまったパイを申し訳なさそうに拾って紙に包んでいる彼女を、俺はなぜか気に入った。この子を見ていると、自然に笑える自分がいた。
これからのことを訊ねる俺に、彼女は約一カ月間のイギリス周遊のスケジュールを見せてくれた。それは全土の地図に、ところどころ丸印がつけられ、日付だけが書かれたものだった。俺がこれから行くべき場所と幾つか一致していた。
気付いた時にはもう、車で同行しないかと誘っていた。
少なくとも彼女と一緒にいる間は、悪夢から解放されると思っていたのだ、この時は。
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