10 レイク・ディストリクト 二人の過去①
「面影を追い続ける男」 10 レイク・ディストリクト ー二人の過去①ー
この人といると何かが起こりそうだという私の予感は当たっていた。
二日前のあの橋から突き落とされた子供。
いつもの悪い夢の続きだと思うには、鮮やかすぎた。
隣にいた司も確かにあれをみたはずなのに、何故彼はあの時のことに触れないのだろう。まるで何もなかったかのように振舞っている。
私もなんとなく口に出せず、チェスターの街並みを心が空っぽのまま歩いた。どこかで食事をして、どこかで泊まった記憶が自分のものではないように思えた。
今、私たちは夜の道を走っているのね。
冷たい風を頬に受けて、ようやく睦月は目で見る景色と、頭で考える視界とが一致するのを感じた。
横にはハンドルを片手で握り、片手で煙草を吸う司がいた。
これからの不安を心配する気持ちより、この人の横顔を見ていられる時間がいい。
いつも無意識のうちに、今大切なものは?と問いかける自分に答えていた。
霧が出始めていた。モーターウェイを進む前方には次々に白い雲が現れ、車にぶつかり、散り散りに壊されて後方へはじけていった。
ずっと見ていると次第にその雲は厚くなり、車はその中を無理矢理押し入るように変化していく。
目覚めると、車は湖のすぐ傍に止まっていた。
私は彼の毛布を被っていることに気付き、ゆっくり窓の外を見た。
彼が吐く白い息が、秋より冬に近くなった景色の湖と調和していた。
まだ朝になるには少し早い、白と黒だけの時間。彼にとても似合う時刻だ。
時田司。彼はどういう過去を持った人なんだろう。
ロンドンに住んでいること以外、まだ何も知らない。年齢は推定二十台後半。
普通の勤め人の雰囲気はない。寡黙な様子が芸術家のようでもあり、黒のイメージから危険な職業も連想された。
何の為に旅をして、どうして私を誘ったのだろう。そして今、一体何を考えているの?
私は自分のことで精一杯だったはずなのに、他人に興味を持ち始めていた。でも、口に出して色々聞くには、まだ過ごした時間が全然足りなかった。
*
ボウネス・ベイにはたくさんのヨットが停泊し、赤と白の浮き輪がぶら下がっているのが目についた。丘の上の古い立派なホテルが、景色を落ち着かせている。
しばらく車をメンテナンスに出すからと、司は向こう岸のアンブルサイド行きのウォーターバスの切符を手に戻ってきた。
窓と天井がガラス張りになって両岸がよく見える遊覧船に乗り込む。
朝一番なので観光客はいなかった。
「ここウィンダミア湖は氷河によって造られたと言われ……」
静かなクラシックと女性の案内が船内に流れる。
「きれい」思わず口から出た言葉。
「まだ紅葉が残っているね」
私たちの会話は、当たり障りのない景色のことばかりだ。
アンブルサイドで降り、最初に目についた『レイク・ホテル』と看板が出た緑色の屋根の小さな宿に入る。
「今晩シングル二つある?」
司が訊ね、「ええ、どうぞご覧になって」と夫人が部屋を見せてくれた。
シャワーが各部屋に付き、値段も手頃だったので、ここに決める。
階段を降りていくと、犬を抱いた主人が「十一時にここからミニツアーが出るよ。表にあるワゴンに十人乗れるんだ。ワーズワースやポターの家も行くし、午後のお茶も付いてるよ。どうだい?」
司は行きたがらないのではと思ったが、髭を生やした陽気な主人に乗せられ、半日ツアーに参加することになった。時には運転には休みも必要だ。
キッチンから若い男の子が顔を出し、挨拶をした。
表に出ると、ワゴンの運転手も同じ顔をして笑った。
二人とも主人とそっくりで、このホテルが家族経営で、各自が役割分担を持っているらしいことがわかった。
夫人と弟がキッチンを担当し、兄がツアーのガイド、主人がレセプション兼、客の話し相手といったところかな。
立ち上がると私の背丈くらいありそうなシープ・ドッグはイーウィと呼ばれていた。全身黒くて、手足の先としっぽの先と首回りだけ白い。
まるで白いマフラーをして、白い靴下を履いているみたいに。そっと撫でてもおとなしい。そしてあたたかい。犬がすきだ。
いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。