15 ホイットビー②
「面影を追い続ける男」 15 ホイットビー ー嘘②ー
司はなかなか朝食に降りて来なかった。たいてい私より先にテーブルについて新聞を読んでいるのに。
オーダーをしてから、司の部屋に行ってみた。疲れて眠ってしまっているのかしら。ノックをしても返事がないので、鍵のかかっていないドアを開けた。
「まだ寝ているの?」
司に近付くと、ベッドがかなり乱れているのが見えて、血の気が引いた。
彼は肩で苦しそうに息をしていた。額に手を当てると、凄い熱がある。急いで階下に行き、宿の主人に事情を話した。
「近くに往診をしているドクターがいるから呼ぶよ」
親切な主人はそう言って、すぐに電話をかけてくれた。彼は急病人がいると伝えた後、何度か短く返事をしてから受話器を置いた。
「今さっき、往診に出てしまったばかりだそうだ。戻って来たらすぐ来てくれるように、奥さんに伝えておいた」
私はお礼を言って、熱があるので氷を分けて欲しいと頼んだ。
「あいにく、今の時期氷を作ってないんだ。この先のパブなら分けてくれるかもしれないな」
私はパブの場所を聞いて、ドクターが着いたら司の部屋に案内してと頼み、車のキーを取りに部屋に戻った。
椅子に掛けてある司のジャケットのポケットを両手で探る。左手にキーが触れた。
同時に右手に二枚の紙と、何か固い小さな物の感触があった。私は考えるより先に、右手に掴んだものを眺めていた。
恋人同士の写真。司は、本当はこんな風に笑うんだ。隣にいるブロンドの女の人は、やっぱり妹には見えない。
もう一枚は、メモ用紙に<さよなら、マリアより>と書かれた短い手紙。そして、銀色のリングが手のひらにするりと落ちた。私はそれらを急いでポケットに戻して、また階段を駆け下りた。
ハンドルを握る手が震えて、私は何度も自分に落ち着けと言い聞かせた。何も慌てることなどないと。今は何も考えてはいけないと。
*
大きな氷を砕いて袋に詰めているうちに、ドクターが到着した。背筋こそピンとしてはいるが、真っ白な髭だらけのかなりの老人だった。彼は一人で黒い厚手の鞄を抱え、一段ずつ手すりにつかまりながら階段を上っていった。大丈夫かしら。
ドクターは丁寧に司を診た後、一本注射を打ち、私に薬を手渡した。司は途中で薄目を開けたが、またすぐに目を閉じた。
「私の注射で治らない熱はないよ」
部屋を出てから、彼はそう言ってにっこりと笑ってみせた。
「どうしてこんな老人が、往診なんかしているんだろうと思っていますか」
私がどう答えていいか迷っていると、「この町で往診している医者は私一人なんだ。私が死んだら往診も終わり。本当は必要なはずなんだがね。日本のお嬢さん、君だって病気の時、動きたくないだろう?」と言って、私の肩を叩いた。
きっとこの方は地域の人々をこうして安心させてきたのだろうな、とふと思った。
宿の玄関でもう一度お礼を言うと、老ドクターは、「彼はしばらくは注射のせいで眠るから心配ない。後で私の家に夕食を食べに来なさい。君の顔色の方が心配だよ」と言って、ゆっくり帰って行った。
また氷を運び、冷たさで感覚のなくなった指を一気にお湯に浸した。こわばっていた指は、痛みが走ったあと、次第に血が通っていくように感じられた。
ベッドの近くに椅子を引き寄せて、司の寝顔を見つめていた。具合は随分良くなってきたようで、もう肩で息をすることはなくなっていた。
夢でも見ているのかな。少しずつ部屋は薄暗くなっていき、一日の終わりを告げる鐘が響き渡り、私は急に心細くなって涙がこぼれた。
道の向こう側に走って行っても、誰も私を知っている人がいない。異国ではあたり前のことが、改めて身に沁みる。
日本が懐かしい。帰りたい。あたたかい場所で眠りたい。
私はそっと部屋を出て、ドアを閉めた。さっきの言葉が社交辞令じゃないといいけど。
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