10 レイク・ディストリクト 二人の過去③
「面影を追い続ける男」 10 レイク・ディストリクト ー二人の過去③ー
夕方、ホテルに帰り着いてから、二人で湖に散歩に出た。
世界は今、紫色だった。湖も空も全てが限りなく薄い紫に包まれ、ゆらゆらと佇んでいる。小さなボートを借りて湖に下りた。
暮れかかる一歩手前の時。<青い時刻>と心の中で呼ぶ。
会社の大きな窓から、電車の小さな窓から、外を見ている私。その時刻に窓に居合わせないことの方が多い、忙しい毎日。
一日のうちで一番すきな時間。自分と真正面から向き合っているような、時の流れを確かめているような。
せつない終わりのようで、ゆるやかなはじまりのようで、短い愛おしいひととき。
*
湖にはところどころ岩が出ていて、司はそれを避けて漕ぐことに集中していた。
ようやく岩場の合間をくぐり抜けたところで、手を休めて私を見た。
白い鳥たちが横を泳いでいく。全身から力が抜けていくような不思議な感覚を味わっていた。
「私、誰にも知らせずに日本を出てきたの」
一人でイギリスに行くなんて言ったら、どうして?って聴かれるに決まってる。勇気あるねとか、何が目的なのとか、本人でさえいらない理由を他人は欲しがる。
そして私はそれを納得させるために、きっと嘘の言葉を並べ立てる。それが嫌だった。
「自分のやっていることの意味なんて、後でわかるんだ。俺はそう思ってる」
司は手を組んで、静かな声でそう言った。
「ウェールズで、俺たちは不思議な現象に遭っただろう?」
私はうなずいた。そう、そのことについて聞きたかった。
「俺はそれまでにも、似たような状況に遭った。眠っている時の夢とは別に、確かに意識に働きかける幻覚のようなものを見るんだ」
彼は私から目を離さずに続けた。
「君は明るく自由に生きているように見えた。俺とは随分違う人間だと。なのに、あの幻に手を差し伸べたね。それは君が悲しい経緯を持った人だからだと感じていた。あの日からずっと」
私の心の中の、自分でも守り切れない小さな欠片を見つけられてしまった。
それが不安で、ずっと違う自分を演じてきた。そう、言い当てられたら、もっと辛いはずだったのだ。なのに私は今、この時を待っていたとさえ思ったんだ。
「私は逃げて来たのかもしれない。或いは、これから生きていくために何かを探しに。でもまだ何も考えられない。哀しみは存在していて、そこから抜け出したいのか、ずっと浸っていたいのかさえわからないの」
この人は私の哀しみを見つけたと言うことと引き換えに、自分の中にも哀しみがあることを告白することになった。
それが睦月を少し救った。互いに訳を話さなくても今は十分だった。
*
暗くなってからホテルに戻ると、夕食は含まれていなかったが、よかったら一緒にと食堂に案内された。夏にはきっとここを埋め尽くす観光客が来るのだろうが、日々気温が下がっていくこんな夜には、他の客は一人もいなかった。
隣のテーブルにここの家族たちが座り、私たちにワインを勧めてくれた。
深い赤色ワインは少しずつしか飲めないほど濃く、舌を包み込むように溶けていった。
あたたかいクリームの煮込み料理はおいしかったが、デザートのケーキは砂糖がジャリジャリ音を立てた。
頭の隅に一瞬、何もかも快適だった日本が浮かんだ。
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いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。