15 ホイットビー③
「面影を追い続ける男」 15 ホイットビー ー嘘③ー
遠慮がちにベルを押した私を、老医師夫妻は快く歓迎してくれた。夫人も笑顔がすてきな人で、私はすぐにくつろぐことができた。
ドクターは重い足を引きずりながら、オレンジの香りのする飲み物を運んできてくれた。冬には必ず果実を漬け込むお酒を作っているらしい。昨年漬けた瓶が、一年越しに味わえることが楽しみだと言う。
深い甘い香りが、食卓の空気とふわふわ混ざり合った。夫人の料理は、イギリスに来て食べた食事の中で一番おいしかった。いや、今まで食べた中でも五本の指に入るかもしれない。
ホワイトソースで柔らかく煮込んだ肉と野菜。大きめに切られた長葱が口に入れるととろとろして、私は一口食べるごとに感嘆の声を挙げた。
*
夫妻は私に娘さんの話をしてくれた。彼女は今ロンドンで獣医師として働き、結婚して子供もいるそうだ。仕事が忙しくてなかなか故郷に帰って来られないのは淋しいが、二人にとって彼女は誇りなのだと言う。
「私が往診を自分の使命だと思っていることを理解し、自らも信じる道を進んでいる頼もしい娘なんだ」
そうドクターは満足気に語った。自分の娘をこんな風に褒める親は、きっと日本には少ないだろうな。
「ご自分の跡を継がせたいとは思わなかったのですか」
「それは彼女のいくつかの選択肢の一つではあった。かなり迷っていた。でも私は何も言わなかったよ。彼女が継ぐ可能性を一度でも真剣に考えてくれただけで嬉しかった」
私は自分のことだけで精一杯で、親の気持ちには、いつも見て見ぬ振りをしてきた。そのことを時々後ろめたく思っても、これからもきっと自分のことだけ考えて生きていくのだろう。
「あの彼は、お嬢さんの恋人?」
食事を終えて、ソファーで私にお茶を勧めながら、ドクターが訊ねた。私は、いいえと首を振った。
「私たち、まだ逢ったばかりなんです。でも、初めから特別な人です」
「そんなに心配そうな顔をしなくても、二三日静養したらすっかり良くなるよ。疲れが出ただけだから」
「心配なのは、彼が目覚めたあとなんです」
私は自分が言いたいことをうまく伝えられないと思ったが、先を続けた。
「少しずつ互いが相手に心を許してきている。そう思ってたのに、彼は私に本当のことばかり話してくれたわけではないと知って」
ドクターは私の言葉にうなずいてから、二杯目の紅茶を注いだ。
「嘘にはね、二種類あるんだよ。自分を守るためにつく嘘と、相手を守るためにつく嘘だ。それがどちらかわからないうちは、相手を責めてはいけない」
私は、今まで自分がついてきた嘘について、どちらが多いだろうか思い返そうとしたが、それは自分でさえ難しいことだった。
たとえいつかあなたといることが辛いことに変化しても、絶対後悔しない。
いつか司に言った言葉を、胸の内で何度も繰り返した。それを嘘にはしたくない。
またいらっしゃいと二人は私をやさしく送り出してくれた。
私は振り返って、夫妻が家に入るのを見届けた後、宿と反対方向に歩き出した。
道路は夜露で湿り、光が滲んだ。行き過ぎる車のヘッドライトがまぶしくて目を伏せる。しばらく歩いてようやく電話を見つけ、私はカードを差し込んだ。
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いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。