おとうふ
はじめてのくちづけの相手は、ヘビースモーカーの二つ年上の男だった。
私があこがれて、つき合ってもらっていただけの人。
サークルの先輩の彼は、特定のつき合ってる人はいないみたい。
気が多いモテル男。はすに構えてるかと思えば、あちこち啄ばんでみる。
*
はじめて会った日から、私はその人が気になっていた。
なぜだろう。顔がいいわけでもないのにね。
誰にも媚びずに自分のペースで話し掛けるその人から、目が離せなかった。
私のことはこども扱いで、おでこをつついたりして笑ってたね。
夏の合宿。手招きするから付いて行った。
高床式みたいな隣の小屋の下に連れて行くの。
突然の二人きりに訳もなくどきどきしたのに
「ほら、あり地獄。滅多に見れないぞ。ラッキーだな」だって。
もう、ムードないなぁって、呆れてしまった私。
この時、もうあなたのことをとっくにすきになって、引き返せなくなっていた。
*
きっかけをくれた文化祭の日。
みんなで飲みに行って私の隣にいた彼に、ふとした瞬間、耳元で言ったの。
「今度二人で会って」って。
私の勝手な約束を覚えていてくれて、誘ってくれたね。はじめての二人きり。
「どうして俺を誘ったの」
「すきって、言いたかったから」
彼は真っ直ぐ前を向いたまま固まった。
私は居たたまれなくなって席を立った。
え、あんなに真剣に受け止められちゃった。どうしよう。
冗談にされて、笑って誤魔化されると思ってたから。
すぐにいつもの彼に戻って、こっちを向いてにやっと笑って、ありがとうって。
ありがとう、だから、これで終わりかなって思ったのに。
時々二人で待ち合わせた。でも、サークルのみんなには内緒で。
秘密にしてるのは、他の人には知られたくないからでしょ。
ってシュンとしてたら、いつのまにか伝えてくれていた。
少しずつ知られていく二人の関係。
*
彼がサークルの会報に載せる音楽の話を、いつも楽しみにしていた。
知らない音楽なら借りてきて聴いてみた。
彼のすきが自分にも沁み渡って、本当に自分もすきになる不思議。
あの曲すき。私がそう言うと、彼は嬉しそうに
「他のアルバムも聴かせてあげるよ」と言った。
私のために作ってくれた音に、また知らない曲が入って、それがすきになる。
そんな繰り返し。だから思い出と共に、いつも曲が鳴る。
公園で私を抱きしめてくれる時、シャツから煙草の匂いがした。
彼はサスペンダーをしていたから、私はよくふざけてそれを引っ張った。
やったなって、私のブラの紐をブラウスの上から探り当てて、お返しって。
そんな時、まだおでこにしかキスをしてくれなかったね。
ジャズのトランペットが聴こえてきそうな夜更け。
くわえ煙草を空に向けて「航空灯」って言うあなたの横顔。
こっちを、もっと振り向かせたかった。
*
お互いに腕時計で時間を確認して、目で合図した約束。
あの日、鎌倉の海を見に車で遠出したね。
真冬の、でも陽射しが届くあたたかい海岸。
二人でジャンプして砂にたくさん足跡をつけた。
彼の靴跡がいとおしくて、カメラがあったら撮ったのに。
暗くなって山道にさしかかったら、クールな彼の運転が変わった。
ガンガンに攻め込んでいく、前の車を煽る執拗な走り。
ジェットコースターも乗れない、臆病者の私は凍り付いた。
こ、このまま、死んでもいい、とは当時思えなかった。
*
湖のほとり、何事もなかったように、やさしい運転に戻る。
夕暮れの碧を背景に、車の計器のランプたちがぼんやり光る。
唇が重ねられた時、なぜか煙草の匂いはしなかった。
檸檬の味でもなく、強いて言うと、やわらかい、あまり香りのないおとうふ。
もちろん、絹の方の。
硬質なあなたの、唯一やわらかい部分。
頭の中に「おとうふ」と焼きついたまま、今度はざらっとした感触に固まった。
絹から木綿に。応えなくてはいけないのかな。
いつ息をしていいか、わからない。
この人は、私のはじめてのキスだって、きっとわかってない。
幾つも経験した女だと高を括っているんだ。
冷たい手で胸に手を入れられて思わず身を引いた。
彼は、躊躇した私に、意外そうに「ごめん」と謝った。
帰りの車からの風景を忘れない。
渋滞の車たちのテールランプのリボンの帯が揺れて、何も考えられずに。
首都高のぐるぐる高速回転は宇宙遊泳のようで夢ごこち。
はしゃいだ私は、どこまでもあのまま回っている。
*
次の日、私は雲の上だった。
気付くと唇をさわってしまって昨夜に飛んでしまう。目を閉じてもう一度。
誰かに気付かれてしまうのではないかと、どきどきした。
そんな訳ないのに。証拠など残ってはいないのに。
片想いでも全然平気だったのに、キスをされてから私は駄目になった。
急にさみしくなってしまった。
次にすきになる人は、きちんと私を見つめてほしい。
私はサークルをやめ、彼の電話に出なくなった。
*
お豆腐、だあいすき。
大葉と茗荷と生姜をのせて、ひんやりのまま口に入れる。
あたためて、ふぅふぅたべるのもいい。
昔から、居酒屋に行くと、必ず頼んでしまう冷ややっこ。
決して、初キスを想い出している訳じゃないよ。
いつの日か、昨晩抱かれたことなど平気で隠せるようになっていく。
そんな私の、まだ恋に臆病で、逃げてしまった話。
はじめて本気で、せつない程にすきだった人。
「忘れられない恋」 第36話 おとうふ
今読むと、赤面しかないな。
でも、この彼のこと、すっごくすきだった。
たくさんの「すき」を思い知った人。