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おとうふ

 
 はじめてのくちづけの相手は、ヘビースモーカーの二つ年上の男だった。
 私があこがれて、つき合ってもらっていただけの人。

 サークルの先輩の彼は、特定のつき合ってる人はいないみたい。
 気が多いモテル男。はすに構えてるかと思えば、あちこち啄ばんでみる。

 はじめて会った日から、私はその人が気になっていた。
 なぜだろう。顔がいいわけでもないのにね。
 誰にも媚びずに自分のペースで話し掛けるその人から、目が離せなかった。
 私のことはこども扱いで、おでこをつついたりして笑ってたね。

 夏の合宿。手招きするから付いて行った。
 高床式みたいな隣の小屋の下に連れて行くの。
 突然の二人きりに訳もなくどきどきしたのに
「ほら、あり地獄。滅多に見れないぞ。ラッキーだな」だって。
 もう、ムードないなぁって、呆れてしまった私。
 この時、もうあなたのことをとっくにすきになって、引き返せなくなっていた。

 きっかけをくれた文化祭の日。
 みんなで飲みに行って私の隣にいた彼に、ふとした瞬間、耳元で言ったの。
「今度二人で会って」って。
 
 私の勝手な約束を覚えていてくれて、誘ってくれたね。はじめての二人きり。
「どうして俺を誘ったの」
「すきって、言いたかったから」

 彼は真っ直ぐ前を向いたまま固まった。
 私は居たたまれなくなって席を立った。
 え、あんなに真剣に受け止められちゃった。どうしよう。
 冗談にされて、笑って誤魔化されると思ってたから。
 すぐにいつもの彼に戻って、こっちを向いてにやっと笑って、ありがとうって。

 ありがとう、だから、これで終わりかなって思ったのに。
 時々二人で待ち合わせた。でも、サークルのみんなには内緒で。
 秘密にしてるのは、他の人には知られたくないからでしょ。
 ってシュンとしてたら、いつのまにか伝えてくれていた。
 少しずつ知られていく二人の関係。

 彼がサークルの会報に載せる音楽の話を、いつも楽しみにしていた。
 知らない音楽なら借りてきて聴いてみた。
 彼のすきが自分にも沁み渡って、本当に自分もすきになる不思議。

 あの曲すき。私がそう言うと、彼は嬉しそうに
「他のアルバムも聴かせてあげるよ」と言った。
 私のために作ってくれた音に、また知らない曲が入って、それがすきになる。
 そんな繰り返し。だから思い出と共に、いつも曲が鳴る。

 公園で私を抱きしめてくれる時、シャツから煙草の匂いがした。
 彼はサスペンダーをしていたから、私はよくふざけてそれを引っ張った。 
 やったなって、私のブラの紐をブラウスの上から探り当てて、お返しって。
 そんな時、まだおでこにしかキスをしてくれなかったね。

 ジャズのトランペットが聴こえてきそうな夜更け。
 くわえ煙草を空に向けて「航空灯」って言うあなたの横顔。
 こっちを、もっと振り向かせたかった。

 お互いに腕時計で時間を確認して、目で合図した約束。
 あの日、鎌倉の海を見に車で遠出したね。
 真冬の、でも陽射しが届くあたたかい海岸。
 二人でジャンプして砂にたくさん足跡をつけた。
 彼の靴跡がいとおしくて、カメラがあったら撮ったのに。

 暗くなって山道にさしかかったら、クールな彼の運転が変わった。
 ガンガンに攻め込んでいく、前の車を煽る執拗な走り。
 ジェットコースターも乗れない、臆病者の私は凍り付いた。
 こ、このまま、死んでもいい、とは当時思えなかった。

 湖のほとり、何事もなかったように、やさしい運転に戻る。
 夕暮れの碧を背景に、車の計器のランプたちがぼんやり光る。

 唇が重ねられた時、なぜか煙草の匂いはしなかった。
 檸檬の味でもなく、強いて言うと、やわらかい、あまり香りのないおとうふ。
 もちろん、絹の方の。
 硬質なあなたの、唯一やわらかい部分。

 頭の中に「おとうふ」と焼きついたまま、今度はざらっとした感触に固まった。
 絹から木綿に。応えなくてはいけないのかな。
 いつ息をしていいか、わからない。

 この人は、私のはじめてのキスだって、きっとわかってない。
 幾つも経験した女だと高を括っているんだ。
 冷たい手で胸に手を入れられて思わず身を引いた。
 彼は、躊躇した私に、意外そうに「ごめん」と謝った。

 帰りの車からの風景を忘れない。
 渋滞の車たちのテールランプのリボンの帯が揺れて、何も考えられずに。
 首都高のぐるぐる高速回転は宇宙遊泳のようで夢ごこち。
 はしゃいだ私は、どこまでもあのまま回っている。

 次の日、私は雲の上だった。
 気付くと唇をさわってしまって昨夜に飛んでしまう。目を閉じてもう一度。

 誰かに気付かれてしまうのではないかと、どきどきした。
 そんな訳ないのに。証拠など残ってはいないのに。

 片想いでも全然平気だったのに、キスをされてから私は駄目になった。
 急にさみしくなってしまった。
 次にすきになる人は、きちんと私を見つめてほしい。

 私はサークルをやめ、彼の電話に出なくなった。

 お豆腐、だあいすき。
 大葉と茗荷と生姜をのせて、ひんやりのまま口に入れる。
 あたためて、ふぅふぅたべるのもいい。

 昔から、居酒屋に行くと、必ず頼んでしまう冷ややっこ。
 決して、初キスを想い出している訳じゃないよ。

 いつの日か、昨晩抱かれたことなど平気で隠せるようになっていく。
 そんな私の、まだ恋に臆病で、逃げてしまった話。
 はじめて本気で、せつない程にすきだった人。



「忘れられない恋」 第36話 おとうふ
 今読むと、赤面しかないな。
 でも、この彼のこと、すっごくすきだった。
 たくさんの「すき」を思い知った人。


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水菜月
いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。