15 ホイットビー④
「面影を追い続ける男」 15 ホイットビー ー嘘④ー
春の海を腕でかき分けて泳いでいるような心地よさが、体全体を包んでいた。絶望の淵から戻ってきた自分を感じ、静かに目を開けた。
俺は額の上のつめたいものを取り除き、ゆっくり体を起こした。
傍の椅子に、睦月が座ったまま眠っている。微かに擦れるような音が途切れることなく聴こえてきた。
俺は手を伸ばして、睦月の片耳からイヤホンを外し、自分の耳に当てた。
流れるようなメロディラインを奏でる、アコースティックギターの音色。コード進行のたびに指と弦がこすれてキュッとなる音がせつない、Stingの『Fragile』
<いつまでも雨は降り続けるだろう。まるで星が涙を流しているようだ。
雨は教えてくれるだろう。人というものがどれほど脆い存在か。
僕らがどれほど儚い存在か。>
俺は右手で彼女の頬に流れ落ちる涙を受け止め、左で唇から洩れるかすかな寝息を確かめた。
曲は最後にオルゴールのように透明に響くハーモニクスで終わり、あとには長い静寂だけが残った。
*
俺の熱が下がり、完全に起き上がれるようになるまでに四日もかかった。
そして、その間に年が明けた。俺たちは新しい年をここで迎えることになった。
睦月は時々ドクターの家に行き、帰ってきてはそこでの話をした。どこがとうまく説明できないが、俺が眠っている間に、彼女は少し変わったように思えた。
何か考え込むように一点を見つめる回数が増えていた。彼女は自分でそれに気づくたびに、心をここに戻そうと努めているように見えた。
*
冬の晴れてあたたかい朝、俺たちはまた旅へと出発した。病み上がりの俺の代わりに睦月が運転すると言うので、ポケットからキーを手渡した。
「信用して大丈夫なのかな」
「これでも結構上手いのよ。イギリスは日本と同じ右ハンドル、左側通行だし、任せて」
彼女は少し窓を開けて走ったので、長い黒髪が風に揺れた。片手を伸ばして髪の先に触れてみた。睦月はちらりと俺の方を見てから、目を閉じた。真っすぐの道だったが、俺は慌ててハンドルの下部を支えた。
「私の髪って普通の髪なのに、でもね、ここに居るととても目立つのよね。最初居心地悪くって。日本人だって証明書ぶら下げているみたいで。今は慣れてきたから、私の個性のように思えて、気持ちがいいの」
「とても好きだな」
マーマレードの香りがして、彼女の色香が髪を通して、俺の方にそっと手を伸ばしてくるように思えた。
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