人生を暇つぶしだと思っている人
人は環境が変わればすぐに意見を変える。
私は最近まで「人生なんて暇つぶしでしかないんだから適当でいいんだよ」なんて言う人は、無責任な人だと思っていた。
だけれど、色々とよく考えてみた結果、この時代において「人生は暇つぶし」というような意見をとることは、ある意味ではとても合理的であり、実際そういう気持ちで生きている人が健康かつ高い能力を有していることが珍しくないのを見ていると、実のところ彼らは全然無責任な人間ではないのではないかと思うようになった。
つまり、彼の発言は不誠実かもしれないが、彼の人生に対する態度はどうやら誠実であるみたいだ、と思ったのだ。
もし戦争が始まったり、世界に不正が広まったなら、彼らはまず真っ先に逃げ出すことだろう。逃げ出して、それが終わった後のことを考え、そのための最善の選択を取り続けることだろう。それが自分と家族の安全を確保するのに必要なことなら、難しい仕事だって率先して行い、実際にそれを成功させることだろう。
結局のところ、人生に対する誠実さとは、自暴自棄にならないことであり「人生なんて暇つぶし」と言っている人たちの多くは、なぜか自分の人生を大切にし、丁寧にときを過ごしている。意味もなく面倒なことをしたり、心を動かされることのないように、生活に必要な分の仕事をきっちりこなし、それ以外の時間はできるだけ楽しく過ごそうとしている。良識があるのだ。
そういう合理的な生き方は、おそらくこのような安定した競争社会においては「暇つぶし」と表現するしかないだろうし、もし社会が不安定になり、多くの人の命が危険にさらされれば、彼はより不正の少ない、多くの人を助ける側に立つことだろう。その方が合理的だからだ。
彼は「人生は暇つぶし」と言うかもしれないが、彼の生き方自体を見ると「自分の人生をよりよくしたい」というけっこう純な思いがにじみ出ているような気がする。そういうのは見ていて気分がいい。
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「人生は暇つぶし」という考え方はおそらく、この考え方と真っ向から対立している。
「人生は勝ち負けだ」
彼がなぜ妙な不真面目さを演じてまで人生を無意味で気楽なものだと思おうとするのかと考えると、おそらくは不毛な争いをしたくないからなのだ。
生き残るための戦いや、誰かを守るための争いなら、誰もが率先して武器を取る。でもそういうのとは関係なくただ欲望のままに他者の上に立とうと争うことは、醜いし、疲れるし、満足感もそう大したものではない。でもこの時代の国家は、万人に「そうすべし」と押し付けようとする。国同士の戦いに、個人を利用したいのだ。
そういう押しつけがましさに対し「人生は暇つぶし」というまた逆の極端で反抗しているのではないか、と私は思うのだ。
実際、他人が用意した勝負の土俵に立って必死になったって、かっこ悪い。そこで勝って、一時的な栄誉に誇らしげにしているのも、そこで負けて人々から同情されているのも、どちらもある特定の気質を持って生まれた人間にとってはただ気分が悪いだけだ。
「人生は暇つぶし」の真意は、おそらく「意味のない争いはしたくない」なのだ。「もっと自由に生きていたい」なのだ。
だからきっと、私が思うに、そういう人たちは、自分の自由な生き方を守るためなら戦わざるを得ないし、必死になって立派なことを言い始めることもあると思う。
少なくとも彼らは周りに流されている人々よりは真剣に生きているし、自分の道を自分で選ぼうとしている。
人によっては、酒や麻薬的快楽に溺れてしまうような己の悪徳を正当化するために「暇つぶし」なんて言い訳をしているのかもしれない。しかし酒や麻薬的快楽に溺れてなお、言い訳をしようとするところにその人自身の妙な真面目さが出てきている。彼は「見苦しい言い訳をしなくてはいけないくらいに、真面目さに対して敬意を払っている」のだ。
本当に人生のことがどうでもいいなら、言い訳なんてせずにもっと多くの酒ともっと多くの快楽を追い求めていればいい。素面でいなくてはならないから、正気でいなくてはならないから、自分の愚行の後に「これくらいなら大丈夫」と判断しようとするのだ。そのために「人生は暇つぶし」なんて言ってみてるのだ。
かわいらしいと思わないか? 彼らは自分自身に「人生は重要じゃない。暇つぶし程度のものなんだから、多少無駄にしたって大丈夫だ」と言い聞かせようとしている。でもそういう試み自体が、無意識のうちに「人生には暇つぶし以上の価値がある」と思っている証拠なのだ。実際彼らは、暇つぶしというにはあまりに豊かな、中身ある人生を送っている。
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人生をただぼんやりと過ごしている連中がいる。何も考えず、日々のめんどくさい作業や浅ましい快楽のことで頭がいっぱいだ。彼らは自分の人生のことを「暇つぶし」というより「苦行」だと思っている。
彼らを見ているとこちらまで息苦しくなってくる。気の毒で仕方がないのだ。
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人生は暇つぶしなどではありえない。どんな人間も、自分と周囲の人々の行く末を決める選択に迫られたら、必死になる。それが自分という人間にとってもっとも価値のあるものであると捉えざるを得ない。
もし彼にある重大な仕事が与えられたら、彼自身の浅ましい楽しみなどすべて放り出して、それに向かって邁進する。彼が「人生は暇つぶし」と言うのは、そういう重大な仕事がまだ彼に与えられていないからだ。一生与えられないかもしれない。それなら、彼は精一杯豊かな暇つぶしを試みるはずだ。それは彼にとっても周囲にとっても「暇つぶし」と一言で片づけられるものにはならないはずだ。
きっと彼にも、泣くほど嬉しくなるような瞬間があるだろうし、笑うしかないほど悲しくなるような瞬間もあるだろう。結局彼は、どれだけ人生に対して不真面目なふりをしても、そういう自分自身の体験を何よりも大切にしているから、中身のある人間なのだ。
そういうものを他者から冒涜されたり軽く扱われたりするのが嫌だから、自分が空っぽな人生を歩んでいるふりをする。
実際、空っぽな人生を歩んでいる人ほど、豊かでも何でもないどうでもいい体験とそこで感じたことをさも誇らしげに人に語ろうとする。
豊かな人ほど、自分の体験を語らない。あるいは、豊かな体験を、さも何でもないことのようにさらっと語る。
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人を実際以上に高く見積もって判断しているとき、私は吐き気を忘れられる。
人を尊敬するために必要なのは「距離」だ。細部をじっくり眺めなければ、私たちの目は実際より綺麗な像を結んでくれる。私たち自身の目が綺麗だからだ。
この時代の人々は右も左も上も下も、私たちを失望させる人ばかりなので、この時代の人々と関わるときはぼんやりと目と頭を微睡ませて、馬鹿みたいに彼らの演技に騙されていることにしよう。あるいは、彼らの気づいていない最良の部分こそが、彼らの本質であるのだと考えるようにしよう。
どうせ深く付き合うこともない。なら、高く評価しておこう。
そうすれば、わざわざ頭を低くして腰を悪くすることもないだろう。