影が薄い
影が濃い人、というのがいる。
その人が教室に入ってくるだけで、一瞬だけしんと静まり、また元の賑やかさに戻る。ただ大人しいだけの人なら、そのような現象は起きない。
なぜ教室が静かになったのかに気づいている人は少ないと思う。実際、彼は静かで清潔で、常識的な人だ。誰もことを嫌っていないし、好きだと思っている人も多分多くない。なのに、彼が現われると、教室の空気が毎回変わるのだ。
存在感というのは不思議なものだ。
こういうことを言うと繊細な人を傷つけてもしまうかもしれないが、この世の中には、どこに行っても「いてもいなくても変わらない人」という印象にしかならない人がいる。影が薄く、いつの間にかそこにいたり、いつの間にかいなくなっていたりする。かくいう私もそういうタイプだし、おそらく大多数の人間がそういうタイプだ。
それをうまく受け入れられないから、人より目立とうとする人もいる。でもそういう人が何かのきっかけで病気になったり、あるいは落ち込んだりしたとき、すぐに皆が自分のことを忘れたりしていると、その人は自分の本質を悟らざるを得ない。影が薄いというのはそういうことなのだ。
十年経っても二十年経っても、その印象が消えないような人がいる。ほとんど関わっていなかったのに、その人の存在が自分の心の中に残っているような人がいる。目立っていたかどうかは関係がないように思われる。
おそらく、悩んでいるかどうかとか、頭がいいかどうかも関係がない。一貫性があるかとか、人格が優れているかどうかとか、そういうことも関係がない。
存在感というもの自体は、幼少のころからずっと変わらないものであるような気がする。私は自分がどれだけ目立っていても、自分の影が濃くなっているような実感はなかった。いつでもふらっと消えてしまえる存在であることを自覚していたし、それを気にする人がほとんどいないことも知っていた。
私のやることなすことの全てが、全部張りぼてのような感じがした。中身がない感じがした。影が薄かった。存在感がなかった。実感が弱かった。
空虚感、のようなものをいつも感じていた。自分と世界の間の繋がりが、細くて脆い糸によってかろうじて繋ぎ止められているような感じがしていた。
私は自分がいつも、匿名の誰かのような気がしていた。「一般人A」のような気がしていた。いや、どちらかというと「病人A」だろうか。一般人は、自分のことを一般人だなんて思わないだろうから。
だからか、いつの間にか私は自分の人生を生きるのをやめて、人生を「観る」ようになった。私は、俳優というより観客だった。
芸術家になろうとしたこともある。影が薄いというのは、芸術家にとってひとつの徳であるから。作品そのものが理解され、評価されるためには、その作者の性格が知られていてはならないから。謎めいていなくてはならないから。捉えどころがない存在でなくてはならないから。
でも芸術家になるために必要な最大のものは、影の薄さなどではなく、影の薄さからくる、影の濃さへの欲求であった。つまり、目立ちたい、存在ししていたい、そういう欲求が常人よりはるかに強くないと、芸術家は務まらないのだ。彼らは、無謀な試みの結果偉大になる。悲しいかな、目立つのは彼らの作品であって、彼らの人生や個人的経験ではないが。
どれだけ芸術家が偉大になっても、その芸術家自体の影が濃くなるわけではない。ダ・ヴィンチも、ゴッホも、どれだけ偉大であっても、その人生そのものには存在感が欠けている。
ベートベンその他、例外的に影が濃く見える芸術家たちもいるが、彼らは彼ら自身の生が、別の人間によって新たなる芸術として歪められたから、そうなっただけだ。彼らの人生が、面白おかしく、見世物として新しく作られたから、そう見えるだけだ。
もちろん、芸術家は影が薄いから芸術家足り得る、というわけではないと思う。本当の意味での例外的芸術家も、探せば何人かいると思う。元々、影が薄くない人間というのがあまりに少数であるため、芸術的才能を持った人間が無作為に生まれてくるなら、当然そのほとんどは影が薄い存在であるしかない、というだけのことなのだと思う。
それにしても、芸術家が偉大になる最大の条件は、虚栄心だ。存在への欲求だ。存在とは、他者からその存在を知られることによって、さらに強く存在するようになるから。存在とは他視点的な認識作用なのだ。
ともあれ、人は誰しも、自分の影の濃さを自覚する瞬間がある。私はおそらく、平均的な人よりもさらに影が薄い人間であった。存在が希薄な人間であった。知られていない人間であった。知られようともしない人間であった。
奇異に見られることはあっても、キーと見られることはなかった。ひどいダジャレだけれど、しかしそういうことなのだ。
悪目立ちすることは多かったが、存在に気づかれることはあまりなかった。