他人の恋ほどどうでもいいものはない

 フィクション的に理想化されたものはともかくとして、現実に存在する他人の恋は、私には一切魅力的に見えない。
 たとえそれが私自身に向けられた恋だとしても同様である。

 恋というものの本質がどこにあるにせよ、私は私のことを好きだと言ってくれた人に、私自身が好意を持ってその人に共感した場合、そのときに私に生じる感情は、その人に対する恋心ではなく、私自身に対する恋心である。
 その人は私に対して確かに恋をしていた。単純で即時的な性欲ではなく、一種の憧れとして、理想に対する崇拝として、人生の目標物として私を見ていて、私はそれを知識や思考としてではなく、感情や感覚として受け取り、確かめてみる。なるほど、これが恋という感覚。
 それはあくまで、その人の無知に基づく「他者像」にその由来があると知った時点で、私の私自身への恋は一瞬で冷めるし、その時点で、たとえ私たちが愛し合ったとしても、いずれその人も私と同じように私に恋することをやめることをも暴露する。
 分かりやすく言い換えれば「その人の思っている『私』と実際に存在する『私』の間には明確な違いがあり、その人の思っている『私』は実際に存在する『私』とは比べようもないほど美化されている」のである。当然隠し続けることはできないし、愛し合うということは時に隠すことをやめるということでもある。

 恋は誤解に基づく。理解に基づいた愛は、恋という名で呼ばれるものではないと私には思われる。


 他者の誤解ほど人の興味を惹かないものはない。私はのろけ話の類が好きな人間だが、それはあくまで対象を「対等な人間として好意を抱いている」場合のみである。つまり、相手の弱さや醜さへの理解を怠っていない場合ののろけ話のみ、私は聞いていて楽しむことができる。そうじゃない場合、つまり、相手のいい部分だけを拡大し、そうじゃない部分を縮小させ、実際の相手とはあまりにかけ離れた像を結んで語られたのろけ話は、私をうんざりさせるし、少しも興味をそそられない。
 それが、自分についての話であっても同様である。いかに「あなたのことを愛しているか」語られたところで、それがあまりに的外れである場合、ただうんざりし、興味が失せるだけである。それならまだ「私はあなたのことが分からないからもっと知りたい」と正直に言ってもらった方がまだこちらも好意を維持できる。その先にある失望をどれだけ乗り越えられるかは二人の意思と相性の問題であると思うが……まぁそれについては、私が語れることではない。絶望的に経験が不足しているから(泣)

 ともあれ、男性にも女性にもなぜか一定数誤解されたがる人間がいる。自分が誤解されたがるから、他者もそうであるに違いないと思っている人間もいる。
 実際以上に高く評価されていたいと思い、他者を実際以上に高く評価することを習慣にしている人々のことである。私はそういう人たちが苦手である。すぐ恋をし、すぐ冷める。基本的に節操がなく、それを「自分の気持ちに正直」と正当化することに抵抗がない。
 人と良好な関係を維持するすべを心得ており、何をすれば相手が喜ぶか知っている。だが、何をすると相手から軽蔑されるかはあまりよく知らない。自分がよく軽蔑される理由をよく考えないから、何かうまくいかないことがあると「私は全然ダメだ」と自己の全否定という楽な道に逃げる。それはただ、自分の至らない点を分析するということに関して怠惰であるというだけである。

 誤解やそれに基づく恋がきっかけで愛が芽生えることも時にはあると思うし、全否定するつもりはない。ただ私自身はあまり関わらずに生きていたいというだけである。
 現実から目を逸らすことのできない私は、まず間違いなく身近な人間の欠点や不快な点を見逃さず見て取ってしまう。同じように、相手が自分に対して感じたことを、察し過ぎてしまう。相手がすぐに忘れてしまうような私自身への反感を、私はいつまでも覚えている。
 私はそういう人間だから、恋はただ傷つくだけで、それが満たしてくれるのは私の慢性的な肉体的渇望だけであろう。

 「誰か」という理想的な他者との恋を欲し求めようとしてしまう自分には心底うんざりする。それはただ偶然に自分の身を委ねるということに他ならないじゃないか。

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