「家族を安心させたい」について
「家族を安心させたい」
私の周囲には「頑張る理由」が、それである人がけっこういる。多分これは私の周囲に限った話ではなくて、この豊かな時代で生きている真面目な人の多くは、こういう風な身近な人たちの気持ちのために頑張っているのだと私は勝手に思っている。
仕事を頑張るのも、伴侶を探すのも。親というのはどうやっても子を気に掛けるものだし、その子がお先真っ暗な人生を歩んでると、自分自身もまたお先真っ暗であるかのように感じてしまう。だから、子が幸先良い人生を歩んでいると親は幸せだし、子が何かに向かって真剣に取り組んでいるところを見るのも、普通の親は好ましく思う。応援しよう、と思う。
「どうして好きでもない仕事をそんなに頑張ってるんですか?」
私が前、年上の従姉にそう質問した時、彼女はびっくりするほどスムーズに答えた。まるで、今まで何度も自分自身の中で問うては答えてきたことのようだった。
「家族を安心させたいんだよ」
その人は最近、二年間付き合っていた彼氏と別れたので、本格的に婚活を始めようと思っている、と私に教えてくれた。何としても三十過ぎる前に結婚したい、とのこと。それもこれも、家族を安心させるため。
この時代「自分のために生きる」とか「他人の言葉に惑わされない」とか、今まであまり言われてこなかった言葉が世に出回っている。
こういう時代において、ああいう人は少し生きづらいのかもしれないなぁ、と思った。
あの人は周りに流されているのではなくて、自分の意思で、自分の大切な人の気持ちや人生を大切にしたいと思い、そのために頑張っている。だとすればそれもまた「彼女自身のため」と言えなくはない。
だが彼女の人生の行き先は、彼女の肉体的な欲望には基づいていないし、もっといえば……彼女が幸せな生活を手にできるかどうかは、ほとんど出会いに恵まれるかどうかだ。いやもちろん、彼女は頭がいい人だから、親が心配するようなひどいことになることはないと思うけれど……
誰かを大切に思う気持ちは理解できるし、私自身、私の身近にいる人には幸せでいて欲しいと思う。
両親が自分の将来を気にかけてくれるのは、重荷であると同時に、自分の心を支える基盤になると思う。
私は一度、そういうのを捨ててしまったから、今更拾いなおす気にはなれない。両親も、私のことを、何か不思議な生き物かのように見るようになった。娘ではあるけれど、いわゆる「普通の人生」は期待できないものだとして諦めている。自分たちの理解や想像の外側を歩く存在だと、そのように見ている。
私は時々、普通に働こうかな、と思う。
「何のために?」と私の怠惰が問うと、思い付きは「なんとなく」と答える。
でも実際に色々な職業について調べてみたり、知り合いに話を聞きに行ったりすると、もう吐き気で動けなくなる。
毎日やるべきことがあるときに感じる「不安」と、毎日何もやるべきことがないときに感じる「不安」は別物だ。
前者は「それができなかったらどうしよう」という現実的な恐れで、後者は「これがずっと続いてしまったらどうしよう」という遠い将来への恐れだ。
自分が安心することに、何の意味があるだろう、と思うのだが、だが不安という感情は、そもそもそれを消し去ろうと取り組むこと自体にその本質がある。不安は人が動く原動力になる。
先ほど説明した彼女「家族を安心させたい」というのも、見方を変えれば「家族を不安にさせてしまったらどうしよう」という不安から逃げるために、そのように頑張っているともいえる。
もしかすると彼女は、自分のことを家族に干渉されたくないから、先手を打って彼らのご機嫌を取っているのかもしれない。
不安というものへの解釈が「ただネガティブな状態に対する反応」だけでなく「ネガティブな状態を改善するための行動動機となる感情」というものであるならば、もし家族が自分について不安になる場合、彼らは自分の現状を変えようと、あの手この手で要らぬお節介を焼いてくるかもしれない。
彼女には失礼かもしれないが、こういう見方はある程度筋が通っているように思われる。直接聞いてみたいが、まぁそれは機会があれば、ということで。
自分自身のことについては、私は自分の人生に対する不安が大きすぎるので、両親を安心させる前に自分を安心させることに集中しないと、と思う。
「私の人生には余裕が少な過ぎる」と、私のかわいいかわいい「怠惰ちゃん」が言っているので、今は彼女を育てようと思うのだ。
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