無駄なことをしている
一応区切りのいいところまで書き終えたけど、不完全燃焼といった感じだった。ため息をつく。私はいったい何をやっているのだろう……
文章を書くことはずっと昔から習慣として続けている。物語を書くのも、しばらく書かないでいると体調が悪くなってくるから、仕方なく書いている部分もある。でも書きあがったものを読む人の気持ちを想像すると、なんだか自分が無駄なことをしているような気がする。
別の言い方をすれば、私は文章を書くことによって、他人の時間を無駄にしているだけなのではないか、と考えてしまう。実際、私はそんな豊かな心を持っている人間でもないし、職業作家みたいに、人を楽しませることに集中して書いているわけでもない。
ただ、私自身が、書かないと生きていけないから、書いているだけ。でもそうやって書いたものに、何の意味があるだろうか? 私の吐いた、空気中より酸素の濃度が低く、二酸化炭素を多く含んだただの呼気に、何の価値があるだろうか。またため息をついた。
人生に意味や価値を求めてしまうのは悪い癖だ。
もし人生というものが、すでに何らかの計画の内にあり、その時々の目標に向かって進んでいるのなら、意味や価値は、自分のその計画を基準に定めればいい。無駄は無駄と割り切って、背を向ければいい。
私という人間は、悲しいほどに、そういう「真剣に生きている人たち」にとって、一番無駄で、関わる価値のない人間だ。私の人生は完全に目標を見失っており、誰かに捧げられるものもない。それでいて、利己主義的な……エネルギーの放出すら、ほとんどない。私はいつだって「ただそこにいるだけ」なのだ。
くだらない慰めばかりを繰り返している。文章を書くことを、自慰行為だと呼ぶ人はいるけれど、実際はそうではない。文章で生活の糧を得ようとする人は、自慰行為的な文章なんて書いてはいけないし、書いた時点で自分の文章の価値を落とすことになる。生活の糧をすでに別で確保している人でも、自分の書いた文章をできるだけ多くの人に届けようとしている場合は、同じだ。自分が満足するために文章を書いているのではなく、それとは別の何かを目標に書いているし、その目標にとって邪魔なものは、どれだけ感情が求めても排除する。相応しくないものは、削って削って削って、残った美しい文章を、他人に読んでもらう。無駄なところのない、誰かのための文章。それを自慰行為的な文章と同じものとして扱うのは、失礼だと思う。
そういうふうに思うからこそ、自分自身の文章は、どうしようもなく自慰行為的な文章であることを自覚せずにいられない。昔から、ずっとそう思ってきた。だから、それを克服しようと試みていたこともある。そうしろとアドバイスをする人もいたから。
でも、できなかったんだ。
私はどうしようもなく独りよがりな気質を持った人間で、寂しがり屋な癖に、人付き合いが苦手だった。誰かを意識して文章を書くだけで、私の文章からは悪臭がした。それは、私の吐き気だった。
私の読む人への配慮には、見えない軽蔑がにじんでいた。私は人間が嫌いだったのだ。
いっときは、自分のそういう独りよがりで厭世的な性向が、一種の魅力であり、長所であるように思っていた。そういう気質を持った偉大な文学者は、多かったから。そういう人の切実な文章を読んで、自分との共通点を見つけて、それで無邪気に喜んでいた時期もある。
そういう単純な自分でいられる期間はそれほど長くない。現実は必ず私の尾を掴んで転ばせる。
私には、中途半端なものしか書けないのだと知った。何を書いても、名札すらつけようのないものばかり。
明るくて楽しい話を書こうとしても、暗さや悲しさ、憎しみや不快感が入り込んでくる。
逆に、暗さや悲しさ、憎しみや不快感を鮮やかに描き出そうとしても、とたんに中途半端な人間的幸福が混ざり、日常的な退屈の中に溶け込んでいく。
私の傷ついたプライドは、理性に縋りつく。自分自身をできるだけ率直に、正しい形で認識することによって、「認識することのできる自分」という最後の安全地帯だけは確保しようとする。
それで、惨めさから逃れているつもりなのだ。
何もかもが無駄に思えてしまう瞬間が多くなった。私の体は健康であるのに、私の心も、別に落ち込んでいるわけでもないのに、自分の人生と能力の凡庸さが、私の心臓を掴んでいる。
そのくせ、他の人たちと同じように、できるだけ幸せに、できるだけ不足なく、そういう風に生きていこうという気すら起きない。
現状維持しかできないくせに、維持される現状に吐き気を感じている。
具体的に言えば、働きたくないけど、働かないままずっと暮らしていくのも嫌なのだ。
恋愛や結婚のことを考えると、もっと嫌な気持ちになる。
色々なことに気づきすぎてしまう。分かりすぎてしまう。でも、気づいたことや分かったこと自体には、何の意味もない。他の人が知らないことを知っていたって、それを伝える価値自体がないなら、何の意味もない。
信用がない人間が何を言っても無駄だし、信用は、正しさではなく、利益に基づいている。私は利益を産み出せる人間ではないし、利益を産み出したいとすら思えない。
……私という人間の大きな欠点のひとつは、これなのだ。生産性のない人間である、ということ。
私が生み出してきたものがいったい何を変えただろうか? 誰かの人生を、少しでも明るいものにできただろうか? そんなわけないし、それどころか、たまたま私に触れてしまった繊細な人を、病気にしてしまったかもしれない。
時々、自分がこのまま生きていても、誰かを不幸にすることはあっても、幸せにすることはないのではないかと思う。実際、私がどれだけ誰かを喜ばせようとしても、それがうまく行ったためしはほとんどない。気の毒そうな顔をされるだけだ。気の毒そうな顔をしてしまうだけだ。
私は自分の人生が、小さくて狭い人生であることに気づいたし、気づいていたし、ならば、それに慣れるしかないのも知っていたし。
どうして、それなのに、私はもっと優れたものを残したいと思ってしまうのだろうか。
自分が小さくて無意味な存在だと割り切れたなら、私が書いた小さくて無意味なものについて、そうであるということに悩んだりしなくていいはずなのに。どうして、ここで立ち止まることができないのだろう。安住することができないのだろう。
私はどうしていつも、自分自身に不満を抱いているのだろう。不満を抱かずにいられないのだろう。どうにかして、変わろうとしてしまうのだろう。変わることなんてできないのに、ただ意味もなく、試して、試して、疲れて、休んで、また立ち上がって、そして相も変わらず失敗するのだろう。
自分のやってきたことが、全部無駄であることは分かり切っているのに、その現実がどうしようもなく私自身を傷つけて、しかも、その無駄なものに、何度も縋りついてしまう。
誰かの努力の結果を見て、その価値を認めると同時に、その価値を低いものとして認識しようとする自分自身にもうんざりする。
百年経てば全て消えてなくなる、なんて。ただそれは、一秒ごとに消えてなくなるしかない惨めな自分を肯定するために、自分より長く高く生きる人たちを低く見積もりたいだけ。比較するのが苦しいから、比較することができないほどに大きな枠の中で見ようとしているだけ。負け犬の思考法。そんなのは分かってる。
でも……でも? でもどうして……満たされないことへの予感だけは、はっきりしているのだろうか。彼らが、満たされたような顔をしていてくれれば、私だって、それを追いかけることだってできたかもしれない。
それも言い訳なのだろうか。自分の考えたことや感じたことの全ては疑わしい。私自身の、不正な考えが必ず入り込んできてしまう。
¶
時々思うのだ。心の底から思うのだ。私という人間が、この人生が、もっと優れた人間が書いたフィクションであればいいのにって。私という存在は、誰かを楽しませるための、虚構の存在であればいいのにって。
そう思えるだけの根拠もなければ、私という人間のつまらなさは、否定をただ無言で示し続けているだけなのにね。でも、そう思いたくて仕方がないんだよ。
現実から逃げることができないから、現実から逃げる方法を探し続けているんだ、多分。
別の世界が欲しいんじゃない。別の自分が欲しいんだ。私は、私自身にうんざりしているから、もっと優れた自分自身を現実にしてしまいたいんだ。
でも、それができないから、虚構の世界で、理解や認識の世界で、私は私を克服しようとしている。現実の私は何も変わっていなくても、私の中身がもっと色鮮やかになれば、もっと美しく、優れたものになれば、それできっと、私は満足できるだろうと思っているから。そう信じているから。なんて弱い人間なのだろう。
あぁ、そのくせ、人並みのプライドはあって、しかもそれを捨てるつもりはないんだ。プライドのせいで傷つくなら、その傷を喜んで引き受けようとしてしまう強さを中途半端に持っているから、現実を捨てることすらできない。現実の中で私は藻掻きながら、美しい非現実を、現実の中から引っ張り出そうとしている。
それほどまでに、私は自分自身の醜さも、周りの人間の醜さも、大嫌いなのだ。美しくないものが嫌いなのだ。空虚なものが嫌いなのだ。だから、隠された美しさを、引き出し続けなくてはならないのだ。それが無駄であったとしても、それだけが、私の心を慰めるのだから。
無駄であること自体が嫌なわけじゃない。でも、それが無駄であるなら、幸せであるか、美しくなければならない。幸せでも美しくもない人生なんて、消えてしまった方がマシだ。苦痛と醜さの中ですら生きろと要求してくるのは、己の利益と他人の不幸で生きている地獄の鬼たちだけだ。あぁ、死んでしまったっていいのだ。死んでしまった方がいい人もいる。
吐きそうなんだ。いつも。