私たちは「人を傷つけてはいけない」としつけられて育った
私たちの世代では考えられないことかもしれないが「人を傷つけてはいけない」というお題目は、比較的最近生まれたものだ。少し前までは、そんなこと誰も言ってなかった。
嘘だと思うなら、祖父母にでも聞いてみるといい。小学生の時「人を傷つけてはいけませんって習った?」って。
私たちの親世代くらいからだ。弱い人を守りましょう。みんなで協力して生きましょう。命というのは何よりも価値があるものです、なんて。
冷静に考えてみればいい。誰も傷つけずに生きるなんていうのは、不可能だ。ただ、傷つけなくて済むなら、傷つけないようにしようというのが、現代人の「マナー」のようだ。
当たり前のことだが、人間には復讐心がある。復讐されないためには、危害を加えないことだ。私たちは、なぜかいつの間にか、恐ろしいほどに復讐心の強い人間に育った。何か嫌なことがあるたびに、補償を求めるようになった。
「制裁」だとか「不条理」だとか、そんな言葉を振りかざすようになった。それは、決して昔からそうだったわけじゃない。昔はもっと、現実をありのままに耐えていた。ひどい目に合っても、黙って自分の利益のために努力をしていた。誰かを犠牲にすることに、罪の意識を抱く余裕なんてなかった。
私たちはこれでも前に進んだのだろうか? 私には分からない。
遵法精神が育てば育つほど、犯罪者に対する憎しみが強くなるのはなぜだろう?
「犯罪者に優しくするのは犯罪者を育てるのと同じことだ」と言う人の意見が強いのはなぜだろう? なぜすぐに「許さない」なんて言うんだろう。
なぜ「許さない」と「かわいそう」と「どうでもいい」という意見ばかりが目に付くのだろう?
私たちは確かに、社会のルールを守り、自分自身の能力を他者のために使うことを学んだ。そうすることによって、より自分たちの生活が安全かつ快適になることを学んだ。
それなのに、私たちの感情は単純なままだ。つまらないことで怒り、嘆き、叫び、争う。そういう本質が、変わったようには見えない。
若者は短絡的で近視眼的。身の丈に合わない理想主義に溺れる。
老人は懐古的で自分勝手。周りの人間を甘く見ていて、誰かを尊敬するという時でさえ、同時に誰かを馬鹿にしている。
そういう人があまりにも多くて、びっくりする。しかもそういう人たちが、この社会では「エリート」と呼ばれているのだから、不思議で不思議で仕方がない。
私は自分がどこから出てきたのか分からない。私は自分が何なのか分からない。
私の目は、歪んでいるのだろうか? 一方的で、身勝手な解釈をしているように見えるのだろうか。
私は大人を尊敬してきた。若い大人も、年老いた大人も。積極的に、意見を聞くようにしてきた。参考にするようにしてきた。
同世代がひとりもいないようなボランティアにたったひとりで参加してみたりもした。そこで、心底どうでもいい人間関係のいざこざを見せられて、うんざりしたこともある。
優劣とか、それ以前の問題であるような気がしてならない。私には、人間が皆何かそれぞれ別の病気の種を抱えているようにしか見えない。
互いにそれを指摘し合って、憎み合って、壁を作って、似たような病気の者たちとつるんで、他の人間を嘲笑って、安心して、そんな風に生きているように見える。
それは、私がそのようになりつつあるからそう思っているのだろうか? それとも……それを拒んでいるから?
びっくりするような、歪んだ過去のひとつやふたつ、誰もが持っている。
「自分は特別だ」と密かに思っている人間が、この世の大多数だ。
人に対しては「俺なんて普通だよ」と言いつつ、内心では「ま、そういうふりしてるだけだけどな」なんて思ってる。そういうやつが、大多数なんだ。人の心が見えないから「自分だけそう思ってる」なんて無邪気に信じ込んでいる。自分は演じているくせに、他人の演技は見抜けないなんて、間抜けじゃないか。
よぉ。傷ついたかい? いや、もう何度も味わってきたろ。お前は……違う、私たちは、何も考えてない。