「人を見下してはいけない」について

 基本的に人間は他者の「内心」と「態度」と「行動」の区別をしていない。

 よくよく考えてみれば、この三つは常に一致しているわけではない。見下す、というものに関してもそうだ。

 内心では見下しているが、態度と行動には表さない。つまり、下に見ているが、接するときは尊重するし、行動においてもその人に優しく、利するように接する。これはこの社会においてよくあることである。
 善良な社会人は、基本的に無作法な他者に対してこのように接すると思う。マナーがなってない人を軽蔑するが、かといって尊重をやめるわけじゃない。これが問題とされることは滅多にない。仏の心とも言える。

 内心では見下しており、態度も隠すつもりはないが、行動は逆。つまり下に見ていることを隠すつもりはないが、かといってその存在をぞんざいに扱うわけではない、という状態。これは、人が悪友と接するときによくみられる状態である。対象は人間的に劣っているが、自分にとって決してないがしろにしていい存在ではないので、尊重はするし、その人のために何かをすることだってある、ということ。同性間のちょっと歪な友情においてよくみられる。

 内心でも態度でも行動でも見下している。これはもう説明不要。
 これはかなりまずい状態。誰に対しても、どんな生き物に対しても、こういう状態はできるだけ避けた方がいいと思う。誰が見ても嫌な気分だし、人とそういう風に接していると、相手からもそういう対応をされることが増える。自分より程度が低い存在をぞんざいに扱う、というのはあまりに短絡的だし、リスクのあることであると私は思う。


 どの時代にも言えることだが、ちょっと大人ぶった人間は、基本的に説教臭い。もちろんその説教が無駄だとは思わないし、考えるべきことは多いと思う。考える機会を与えてもらっているとも思う。だが、それを語っている本人が全然深く考えていない場合、私はうんざりするし、詰問したくなる。

 ようやく本題に入るが「人を見下してはいけない」と説く人はとても多い。だが、私にはこれがよく分からない。見下すといっても、そこにはいろんな状態がある。全て「NO」として考えるならば、まずそれを説く人間自体が「人を見下す人間を見下している」という一種の自己矛盾に陥っているため、却下しないとその人自身の人格に何か問題がありそうな印象を与えてしまう。
 人は、よく人を見下すものである。自分だけが人を見下さない、ということが可能であるならば、誰かが人を見下しまくっていたとしても、その人を、自分や他の「基本的に人を見下さない人」と同列に扱わなくてはならない。それができるか? できるなら、そもそも説教を垂れる必要はない。やはりそれは、一貫性が欠けているので、そのような解釈はあまり正しいとは思えない。

 ゆえに「人を見下す」といっても、どこまで許容できるか、というラインが存在する。実際歴史上、誰もが尊敬するような人でも、ある特定の種類の人間を見下していることは珍しくない。ブッダは基本的に俗世の人間のほぼすべてを見下しつつ、尊重していたし、キリストもそうだ。そこに「対等」という感覚はあっても「平等」という感覚はない。


 人は基本的に見下されることを嫌う。同時に、尊重されることを望む。見下されることに慣れている人間は、尊重されただけで満足するから、見下されていることを問題だとは思わない。

 人は人の内心に興味を持っている人間と、持っていない人間がいる。自分の行動だけでなく態度に気を配っている人間の内心を想像するのは難しい。人を内心で見下してしまっていても、それを態度や行動に表出させないように気を配っている人間は、高潔に見える。私はそれを、実際に高潔である、と考えていいと思う。(もちろん、そんなことをする必要もないほどに心の根が綺麗な人もいると思う。でも私はそうじゃないし、それを悪いことだとも思わない)
 
 自分に、特定のある感情を禁止することは、あまり安全とは言えない。だから、感情を抱いたまま、態度や行動を理性に従えて、道義に適うようにする。おそらく、大半の説教者の言い分はそれである。

 だから、厳しい「人を見下さないようにしよう」という意見に対して、あまり自分の気持ちを抑え込むのはやめにしよう。醜い人や愚かな人を、反射的に下に見てしまうのは、人間である以上仕方がない。だが、醜さや愚かさは、それを蔑ろにしていい理由にはならない。
 それがどれだけ低劣な存在だとしても、共に生きている以上、尊重するのが理に適っている。

 私たちは能力においても立場においても平等ではないが、等しく価値がないという点では一致しているのかもしれない。

 自分と相手を平等だと思うと、どうしても相手の弱さや拙劣さが自分に乗り移ることを許容してしまう。あの人もやっていたから、私もやってもいい、と思うようになる。人間は、平等ではないし、基本的に醜い行いや愚かな行いは軽蔑すべきである。そのような行いをする人間とは、距離を置くべきである。と、私は思っている。私のこれを「傲慢」と呼ぶ人もいるかもしれない。それならそれで構わない。

 いつか年を取って私の心と体から傲慢が抜け落ちる日が来たなら、それを祝福してほしい。その日までは、私はこれをしっかり持ったまま生きていくことにする。

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