共同体意識について
自分自身のことについてたくさん書いていたときはかなり精神的に不安定になっていたが、しばらくしてかなり落ち着いてきた。自分の中でバラバラになっていた部分が、あるべき場所に収まっていったのかもしれない。
戻った、というよりは……脱皮したという感じ? 皮膚を意識することによって、古い皮膚を捨てることができた、ということかもしれない。いや、自分の表面的な部分と、本質的な部分の区別が少しだけ明らかになった、ということかもしれない。
ともあれ、私は自分の中にはっきりとした「繋がりの欲求」があるのを感じた。
これは俗にいう「承認欲求」に近い欲望では、ない。どちらかというと、マズローの説に従うなら、その下位に存在する「社会的欲求」に近いものに思える。
どこか組織に帰属していたいと感じているのではない。自分より大きい何かに守れていたいのではない。ただ、繋がっていたいのである。貢献していたいのである。
私は、この国に守られているし、家族には尊重されている。友達も、それほど密接な関係ではないが、いるにはいる。学校はやめたが、それによって日本国民じゃなくなったわけじゃないし、外国人の知り合いは数人しかいないので、そこまで世界市民的な感覚を持って生きているわけでもない。
ただ、精神的な繋がりが欠けているような、実感がある。私の伝えたいことが伝わらないこと? いや、私が伝えたいと思ったことを「聞こう」としてくれる人が、あまりに少ないこと……違うな。「この子は何か言いたいみたいだから、私が聞いてあげることで、この子の欲求を満たしてあげよう」という気持ちで聞かれても、この欲求は満たされないのだ。
そうではなく、利他の欲求。自分の行動によって、自分ではない何かを決定的に変えたい。できれば、自分と、その対象にとって「善い」何かをもたらしたい。そのような欲求がある。
私の中には利己心が当然のように存在するし、それがひとより大きいかどうかは分からないが、私の中の動因の決定的なもののひとつになることは認める。でも、それだけでは説明できない私自身の衝動や欲求、行動が私の過去の中には多く含まれていた。「何かの大きなものの一部でありたい」というものであると同時に「何か大きなものを自分の力で動かし、変化させたい」という欲求もあったのだ。
私を苦しめていたものは決定的にふたつある。ひとつは、信ずるものは何もなく、誰とも繋がっていないという、孤独。もうひとつは、自分の力では何も変えることができず、変えられたとしても、自ら選ぶべきものを持っていないという、無力。
孤独と無力。
私はこれらの感情の原因に、自らの精神の歪みを見出そうとしたが……はっきり言おう。見つからなかった。私は、決しておかしな人間ではなかったし、それどころか……この世に存在する大半の人間よりも、賢くて、まともで、優れた人間であった。純粋な目で自分自身が歩んできた道を眺め、そのあとに自分の身の回りで生きている他者を見比べてみると、傲慢や軽蔑の心がなかったとしても、そう考える方が適切であるように思えたのだ。いやもちろん、変なところはあるし、多少は歪んだところもある。だが冷静に考えてみれば、特筆すべきものではない。皆が少しずつ持つ欠点が、彼らと同様に備わっているだけである。つまり私という存在は、決して何かが欠けていたわけでもなく、劣っていたわけでもなく、過剰であったわけでもなく、単に、偶然が運んできた出来事と、この社会の構造と自分の個性とのミスマッチによって、精神的に不安定になっていただけであった、というわけだ。
そう、別の言い方をすれば、私は実のところ、それほど人間を憎んでいないことに気づいた。社会のことも、多分そんなに憎んでいない。いやもちろん、相性が悪かったせいでうまくその中に入り込めず、半ば見捨てられるような形にしまったのは事実だし、そのことを考えると敵意を持つのも自然かもしれない。だけれどそれは、自分の現状がうまく回っていないからそう思うのであって、おそらくは、私がどこかの組織に所属し、自分の能力を生かして人を喜ばせるような仕事ができたなら、それに満足し、かつての恨みは綺麗さっぱりなくしてしまうことだろう。
そういうことができるだけの快活さというか、割り切る力というか、強さというか、そういうものを持った人間であることを、やっと最近自覚した。
私は子羊ではないし、誰かに守ってもらいたいわけでもない。もちろんひとりで生きるのは不安だし苦しいが、それができない人間でもない。ただ私自身の欲求として、望んでいる生として、人との関わりがある。言い換えれば、愛がある。私はやっぱり人間の生を愛しているし、それをより豊かにしたいと思っている。私が口癖のようによく言うあの言葉「生は苦痛である」は確かに正しい。でもだからといって「生を減退すべし」とは思わない。むしろ、この世に「生を減退すべし」と主張する人々がいるのは、一種の練習、つまり生をより強く、確固としたものにするための、訓練装置、サンドバッグとしての役割を演じているのではないかと思うのだ。生を否定する人々が多いのは、生をより強く肯定するために、それが必要だから。決して否定されないものは、強く肯定する必要がなくなってしまうから、常に生が強力であるためには、強力な生の否定がそばに寄り添っていないといけないのだ。叩かれたものだけが強くなる。生を否定している人々も、結局は生の肯定の上に立って語っている。生を完全に否定するためには、沈黙して自ら生を終わらせるしかない。だがそれによって、他者の生が否定されるわけではない。生は、私たちにとってもっとも確かなものなのだ。
話が逸れたが、さらに話を逸らそうと思う。というか、話したいことがもっとたくさんある。なぜ人は死のうとするか、ということを話したい。
私たちは成長過程で共同体意識を育んでいく。自分という肉体が、自分ひとりのものではなく、もっと大きな「みんなのもの」であることを意識させられる。自分の行動が、自分ひとりではなく、多くの他者に影響せざるを得ないことを、私たちは理解し、その考え、感覚を尊重する。
私たちの肉体に喩えよう。私たちの認識は、比喩を通して育っていくのだから、この社会と個人の関係が、その幻想が、どのように成立しているのか、比喩によって説明しよう。
私の足の小指は、私の肉体と繋がっている。私の肉体の一部であり、それ自体が生きるためには、私の体の他の部分が必要不可欠だ。私たちの体の中には、絶対的に重要かつ必要なものと、重要ではあるが、必要ではないものと、重要でも必要でもないものがある。たとえば心臓や脳は、少しでも傷つくと、私たちの肉体全てがダメになってしまう。心臓や脳の破綻は、体全体の破綻に繋がる。対して、私たちの爪の白くなった部分は、重要でもなければ、必要でもない。はっきり言って不必要なものであるから、適切に切除し続けなくてはならない。髪も同様である。
その中間にあるのは、指や皮膚である。これらは、なくなると困るが、なくなったからといって直ちに体の全てがダメになるわけではない。そしてこれらの箇所は、破綻したとき、全体のために犠牲になるしかないことがある。その破綻が広がる前に、その部分を切り取って、全体を助けなくてはならないことがよくある。
私たちは歴史的に、どのような地域でも、そのような処置が施されてきたことを知っている。私たちはそれを比喩的に解釈し、複数の人間を、ひとつの「体」として捉えるようになった。そしてその内部にある人間、一個人は、自分を、もっと大きな体の末端であるかのように捉えるようになった。実際にそんなことはないのだが、人はそのように考える生き物なのである。人は、認識によって、自分の存在の在り方を歪めたり、選んだりすることができる生き物なのだ。
自殺は、自分という人間の将来に希望が見いだせないから起こることではなく、自分という人間が他者にとって不必要であるどころか、害になる可能性を強く抱くことによって、引き起こされるものだ。(犯罪者の自殺率についてのデータを挙げて、この考えの根拠を強くしようと思ったが、見つからなかった。犯罪者が自殺しやすいかどうか、興味を持っている人はあまり多くないのかもしれない)
自殺は、共同体意識という幻想を抱きやすい人間ほど行いやすい。それは「真面目」とか「優しい」とか形容されることが多い。自分という存在を、ひとりで生きている存在ではなく、他者と助け合うことによって成り立っているものとして認識している人ほど、自殺という道を選びやすい。かつての私もそうだったし、私の親戚の彼もそうだった。集団で過ごすことを好むと同時に、ひとりで何かをして、誰かに利することが好きなタイプの人間であった。そういう人間ほど、自分という存在が病的になり、他者に悪い影響を及ぼし始めた時点で、死を強く意識し、何かのきっかけで、それを実行に移す。それは本能と理性の共犯であるが……まぁ何とも言えないことだな。これ以上、言いたいことはない。
認識を一度捨てること。私は自殺未遂から生き残ったのち、自らの肉体の声を聞いた。古い認識を捨てることにした。意識的に、孤独を求めた。他者とは関係のない自分として生きることを欲した。そうすることによって、私の肉体は、私という存在を救おうとしたのだ。自分勝手になること。原始的な利己主義に立ち返ること。
だが、その世界は、私にとって、不安であり、不快なことであった。世界が醜く見えたのは、そのように生きようとする私自身への反発心であろう。共同体意識が弱い人間は、おそらく私が拒んだ利己主義な生を何の苦もなく送ることができるであろうし、私はそれに対して何も感じない。罰しようとも思わないし、矯正しようとも思わない。憎しみも感じない。ただ、そういう人間しかいない世界は息苦しいし、私に似た人間が、そのような利己主義に惹かれていく姿を見るのも、気分が悪かった。
そのような矛盾を抱えて生きていたなら、そりゃ苦しんで当然だ。心が意味もなく裂けるような思いをするのも当然だ。
『人と関わって生きていたい。人と繋がって生きていたい』
『しかしかつて、その、人とのつながりのせいで、私の体は死にかけた。だから私は人と繋がらず、ひとりきりで生きていかなければならない』
『だがひとりきりで生きていて平気でいることができない。他のひとりきりの人たちを見ても、美しいと思えない。むしろ、孤独は絶対的に避けるべきものであるように思える』
そのような矛盾を抱えて生きていた。それに気づいた。
この痛みはおそらく、稀有なものではない。多くの人が、気づかず、自らの内に抱えたものであると私は思う。私に才能があるとすると、それに気づくことができるということと、それを他者と共有できる形で表現できるということだ。あと、大胆さ、かな。私は人からどう思われるか気にする人間だが、人から悪く思われたくないという理由で、自分の信念に基づいた行為をやめる人間でもない。悪く思われることを意識しつつ、それを行える人間だ。空気を読んだうえで空気を破壊する大胆さを私は生まれつき備えている。
これをどのように使うか、ずっと分からないでいたけれど、でもよくよく考えてみれば、明確だ。私は人と繋がっていたい。人に利していたい。誰かを愛していたいし、贈り物をしていたい。
共に生きていたいんだ。繋がっていたいんだよ。手を繋いでいたい。同じ運命を歩んでいたい。助け合っていたい。尊重し合っていたい。
互いに同じである必要はない。むしろ、異なっている方がいい。その方が、その共同体は、いろいろなことができるし、どんな状況にも対処できるから。
ただ大事なのは、強く、硬く、愛情を持って繋がっていること。安全に草を食むことしか考えていない羊の群れではなく、獲物を狩ることしか考えていない狼の群れでもなく、自らの意思で手を取り合っている、人間らしい、高度な群れを築いていたい。状況においては、ひとりきりで役割を果たすことのできる、誰かのためにその身を犠牲にすることのできる、そのような高度な精神性を、構成員に求めるのではなく、むしろ、それぞれ個人が自分のために育てたものを持ち寄って作り出す、そんな共同体を私は欲している。
維持ではなく、目的を持って集う、優れた共同体を私は欲している。守られていたい。守っていたい。でも、縛られたくはないし、縛り付けたくもない。私は人と繋がっていたい。
鎖ではなく、握手で繋がっていたい。