私は自分が生まれたことを喜ばしいことだとは思っていない
誕生日を祝う人の気持ちが分からないというわけではない。愛は屋烏に及ぶとも言うし、好きな人が生まれた日を特別なものとして扱うことに異論があるわけではない。
そもそも人を祝うのは楽しいので、きっかけさえあれば皆何かを祝いたいと思っているのも事実だろう。そのきっかけに、産まれた日というのは誰にでもあって分かりやすいものなので、好まれるのも当然だ。
それに文化的に、誕生日を祝う習慣があると、誕生日が近づくと贈り物がもらえて、それが嬉しいと感じることを幼少期に経験していると「自分が生まれたのはいいことだ」という観念が生まれる。誕生日を祝うことで、潜在的な生きる希望が湧くのだ。そのような無意識的な生きる知恵というものを、低いものとして扱うつもりはない。
私は元々、自分と他者の間に明確な線を引くタイプの人間だった。
皆が喜んでると、私は喜んでるふりをした。皆が悲しんでいると、私は悲しんでいるふりをした。葬式は退屈を感じ、親戚の祝い事の時は「この料理あんまりおいしくないな」と思うタイプの子供だった。(おそらく大半の子供はそうなのではないかと思われる)
そんな人間だからか、私は自分の誕生日を「欲しいものを買ってもらえる日」としてしか扱ったことはなかった。それを喜ばしいことだと思ったことはなく、むしろ自分の人生が苦痛に満ちたものであることを幼いながらも予期していたからか、一種の「補償」のように感じていた。
つまり、産まれてしまったことに対する対価として、人に祝ってもらえる誕生日がある、なんてひねくれた考え方をしていた。
私には「子供が生まれるというのは素晴らしいことだ」という意見は、単なる独断にしか聞こえない。思い込みにしか聞こえないし、人生を明るく生きるための方法論に過ぎないとしか思えない。それ自体が真実であるなど、ありえないと私は思っている。
私が他者に対して「生きていてくれてありがとう」と思う瞬間があるとすると、私自身がその人のおかげで大きな幸福を感じている時か、その人がいなければ自分の想像もつかないような不幸に襲われていたと想像し、安心している時かのどちらかだと思う。
私はそんな幸運に助けられたことは一度もない。私は家族や環境にとても恵まれているが、それはたまたまそうであっただけであるし、そうであったがゆえにそうじゃなかったときより苦しんでいる部分もあるから、そのように全肯定することができない。
そもそも私は私の生を無条件で「素晴らしい」「よい」と判断することができない。
いつだって私はこの問いを手放せないでいる。
「私は生まれない方がよかったのではないか?」
「私は人生は全て無駄なのではないか?」
「私の存在が無駄であるならば、私の隣人たちの存在は? 彼らは無駄でないと言えるだろうか?」
何もそれを頑なに信じているわけじゃないし、そもそも私は「反出生主義者」をこの世におけるもっとも汚らわしいものだと思っている。(そんな連中はさっさと死ねばいい。生を否定するならまずは死んでみたらどうだ? お前らは不誠実なんだ。生を口では否定する癖に、生にしがみついて離れようとしない。何も考えていないんだ)
でもそのような意見を全否定することができないのもまた事実だ。私の認識は「人間はただ人間であるだけで価値がある」などということを肯定することは絶対に許さない。
当然、自分が生まれてきたことには、それ自体には善いも悪いも何もない。私はそう感じている。ただ私は、偶然に従って産まれ、偶然に従ってここまで育ち、偶然に従ってここに存在する。
そこで私は立ち止まり、死を選ぶことができるほどの強靭な精神を持つに至った。
私は、死ぬことを自分の意思でできるようになってはじめて、自分の意志で生きているとということを、はっきりと感じることができるようになった。
私は自殺未遂を行って初めて、真の意味で、意思の結果として、自分が生きているということを、生きていくことを望んでいるということを感じ取った。
それは「生まれたこと」という単なる事実よりもはるかに価値のあることであり、私にとってそれこそが祝うべき事柄となった。
私は私の意思で生きることを選択している。その認識と比べれば、私が生まれた日など、無に等しいものなのだ。
私は自分がどれだけ苦しむとしても、その苦しみ自体に価値のあるのだと言い切れるようになった。それは私が選んだことだからだ。
生きるというのは、無条件で肯定され得るものだ。それが、自分の意思で選んだことならば。
私自身の体と心とこの先の人生を決定的に救ったのは、偶然でも、他者の助けでも、神の恵みでもなく、私自身の意思で行った自殺未遂だった。あの日以来、私は自分の「生きていたい」という意思を、体の全部で理解したし、それこそが私の精神の底にあるもっとも確かな土台であり、私の考える事柄全ての根拠である。
私が私の意思で生きているということに比べれば、両親が私を作ったことなど、何の意味があるだろう? 私は私の意志に至上の価値を置いている。
私もいつか子供をつくるだろうと思っているし、私はその子を誰よりも愛すると思う。私はそういう人間として生まれたと感じているし、そうであるべきだとも思っている。
私はその子の誕生日ではなく、その子自身の意志の成長を祝いたいと思う。その子の「こうしたい」「こうあるべき」を、神聖なものとして捉え、その子自身の宝物になるようにしたい。
私は全ての人間が自分の意志で生きているといえる世界が来ることを望んでいる。反対にいえば、死にたいと思った人間が全て死ぬことのできる世界を私は望んでいる。
生きていたいと意志している人間だけが生きている世界を、私は望んでいる。